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権藤頼子はやさしい手をしている 第十一話 転生を繰り返す猫の、情念の物語

第十一話 佐倉、さくら、サバオ


 人間になりたいなんて。そんな猫がいるのかと、頼子は本当に驚いた。

「じゃあ本当に、人間になりたくてここに来たと?」

「そうだ。しかし、味噌を出してくれたばあさんは、そればかりは転生してみないと分からない、と言った。俺は賭けてみたのだ。でもやっぱり猫、それもその時は冴えないブチ猫でよ。しかも、今度は飼い主はいなかった」

「醤油屋の孫は?」
「死んでいた。ちょうど戦争があったからな」

 そうか。千葉のこのあたりは、空襲はそれほどひどくなかったと聞いたことがある。しかし、醤油屋の孫は、徴兵され、帰ってこなかった。
 こうして醤油屋は跡継ぎを無くし、遠い親族が相続したが、売り払って越したという。

「生まれ変わったのに、飼い主がいなくて、それで、城址公園に棲み着いたんですね」
「そうだ。ブチ猫の時も、俺はぶっちーとか、裕次郎とか、いろんな名前で呼ばれて多くの人間に可愛がられた。だがある日、目つきの妙に悪い人間にもらった餌を食ったら、具合が悪くなって、血反吐を吐いて死んじまった」
 頼子は顔をしかめる。
「毒入りだった、とか」
「そうだろう」

 時々そんなニュースを聞く。猫を虐待する人間こそ、次は猫に生まれ変わってみればいい。野良猫の多くは過酷な環境で、懸命に、ただ懸命に生きている。

「……恐ろしい目にあったのに、人間になるのを諦めなかったんですね」
「諦めない。だが、次の機会まで、なんでか時間が空いちまった。俺は死んで、どこかでぼんやりしていたんだろうな。二十年が経っていた。味噌のばあさんは、漬物のばあさんに変わっていた」

 それが前任者だ。
「で、サバオになった、と」
「ブチよりは気に入っていた。だが俺のような者は、さすがにそろそろ人間になるべきだ」
 その論理は、少し乱暴に思える。
「なんでそう思うんです」
 だいいち、恩返しの相手はとっくに亡くなっているのに、なぜ幾度も転生を繰り返すのか。

「猫は九世を生きる」

 サバオの口調は重々しい。そのどっしりとした佇まいと眼差しは、しんと静まり返った未明の森を思い起こさせる。

「何度も転生を繰り返した猫は神通力を得て、仙狸せんりになると言われている。仙狸の域まで魂が高められると、人間になれるのだ。世の中には、おまえが知らないだけで、もと猫だった人間が一定数いるのだぞ」

 そこで頼子は、律の存在を思い出した。
 前世は猫だった、と彼は言っていた。
 まさか。

「でも……、人間も、そういいものでもないと思う」
「なんでだ」
「人間だって、生きていくのは大変なんです。生活費を稼がなくてならないし、言葉の暴力は溢れているし、油断するとあらゆるものを搾取される」
「なにを搾取された」

 さすが、長い時を生きて、死んで、また生きた猫だ。語彙力は、これまで来た猫の比ではない。

「お金とか、ものとか、自尊心とか。でもいちばん搾取されたのは……そうですね。心かもしれない」
「男か」
 なんだか飲み屋で出会うおじさんみたい。実際にそんな交流はしたことはないが。
「……男でも女でも、友達でも恋人でも、親でも親じゃなくても……猫でも。心を、問答無用で奪われるのに、結局は喪ってしまう」
「なるほど。おまえもなかなか、苦労したのだな。女将と同じだな」
 サバオはなにもかも了解した、といった顔をする。
「女将も損ばかりしていた。だが、こうも言っていたぞ。誰かを傷つける側の方が、実は不幸なのだと。だから自分は少なくとも、不幸ではないと」

 頼子は眉間を軽く揉む。時刻は深夜だ。疲れているのだろうか。初対面の猫の化身に、普段人には話さない心の内を話してしまっている。

 それとも、サバオがあまりにも泰然としているせいか。多くの人間の生き死にを見てきた彼だから、つい、ありのままを、見せてしまうのだろうか。

「……女将は、素晴らしい女性だったんですね」
 人間、なかなかそこまで達観はできない。もしかしたら、そうしなければ生きにくかったのかもしれないけれど。
 サバオはうっすらと青みがかった瞳で、頼子を見つめている。
「誰しも結局、自分の性格で生きていくしかあるまい。我々の多くは人間以上に欲深く執念深いが、同時に情も深い。我々はそんな自分たちを気に入っている」

 確かにそうだ。猫ほど、情深い生き物はいない。だからこそ、着替えどころが存在する。執念深いとサバオは言うが、猫は恨みよりも、恩返しの方を強く憶えている生き物ではないのか。

「……猫である自分を気に入っているのに、人間になりたいのですか」
「そうだ。これも俺に課せられた業だろう」
「というと?」

「あちら側で、女将に会えなくてな」

 ああ、そうなのか。恩返しして、恩返しして。死んで、生まれ変わって、死んで。でも、向こうで女将に会えないから。だから、また生まれ変わりたいのか。

「タイミングがずれてしまったのだろう。女将は俺の知らない時代、知らない場所に転生したのかもしれん。猫の姿だと、捜すのに骨が折れる。だから俺は、今度こそ人間になり、どこかで生まれ変わっている女将を捜しにいかねば」

 なんという強い想い。
 怖いほどである。でも同時にーーー強く、心を揺さぶられる。

「わかりました」
 頼子は立ち上がった。
 すでに深夜十二時を回っている。
 明日は朝から清掃の仕事がある。それでも。
「今からパンを焼きます。それを食べて、いちかばちか、転生が可能かやってみましょう」
 つまり、着替えと同じ段取りで。
「かたじけない」
 サバオは深々と頭を下げた。

 冷蔵庫から、すぐに酵母を出す。ヨーグルト酵母が、今のところ一番、力強いだろう。材料は、シンプルに、北海道産強力粉「春よ来い」と、きび砂糖と、赤穂の塩、それから水のみ。

 材料を混ぜ、吸水タイム。三十分してから、こねる。また三十分してから、こねる。
 冬の土間は冷える。いくら酵母が棲み着いている古民家でも、真冬の発酵はそれなりに時間がかかる。
 囲炉裏に火を熾す。サバオがすかさず、座布団の上にごろりと横になる。若者の姿なのに、仕草がおっさんである。

 それを横目に見つつ、生地の入ったボウルを毛布でくるみ、囲炉裏の側に置く。発酵を待つ間は、スマホゲームをしたり、読みかけの漫画本を読んだり。

 ふっと意識が途切れるように寝落ちしてしまったものの、耳慣れない爆音で目がさめた。すぐ耳元で、サバオがいびきをかいていた。

 あまり驚かなかった。一見、男女がくっついて眠っているようだが、彼の本性は猫だ。頼子の背中側で、彼は丸くなっている。いびきは人間のものでも、そのぬくもりは、気配は、かつて側にいた子のことを思い出させた。

 頼子は毛布をサバオにかけて、パン生地をチェックした。
 一次発酵が終了している。急がねばならない。

 ベンチタイム。ガス抜きして、分割、回復を待って、一つひとつ丸める。箸を真ん中にぎゅっと押し込み、形を作る。可愛らしいおしりの形、だからおしりパンと呼んでいる。
 白いふんわりしたおしりパンは、優しい味わいだ。
 濡れ布巾をかけ、二次発酵を待つ。

 時刻は三時半。吹き抜けの天井付近にある窓から、柔らかな月光が降り注いでくる。

「ヨル」

 と、久しぶりに名前を呼んでみた。

 応える声はない。
 あの子にもし、サバオのような想いが少しでもあったなら。裏口の戸を叩いて、来てくれたのだろうか。
 応える声も、答えもない。

 パンが焼き上がったのは、朝の四時少し前だった。まだ外は暗い。月の光も、ぎりぎり感じることができる。

 サバオは、オーブンがちん、と鳴ったと同時に、自分でむくりと起き上がった。「焼けたのだな」
「はい。まだ熱いですけど」
「問題なかろう」

 実際、サバオは作業テーブルのところまで来ると、熱々のパンをひとつ手に取り、二口くらいで食べてしまった。
「うまい」
「猫舌じゃないんですね」
「八回も猫生をやると、舌も鍛えられるのだ」
 そんなものか。とにかくサバオは、おしりパンをみっつも一気に食べた。そして、
「よし、行くか。まだ月明かりがあるうちに」
 と、表玄関に向かう。来る時も突然だったが、出ていく時も突然だ。頼子は困惑した。
「え? 満月を待たないんですか」
 普通の着替えは、満月の晩に行われる。前もって調査をして、さらに発酵食品をここで食べて……。

「そのへんの域はもう超えている」

 確かに、猫生を八度もやっていればそうなのかもしれない。それに今回は、調査対象の人間もいない。

 サバオは東側の戸に手をかけて、そのまま出ていくかと思われたが、ふと振り向いて、こう言った。

「おまえは、やさしい手をしている」

 幾度となく言われた、その言葉。しかし今日は特に、お腹の底が温かくなるような、こそばゆいような気持ちになる。

「着替えのたびに、やさしい手をした者たちの力を借りた。味噌も食ったし、漬物も食ったし、チーズも食った」
「チーズ」
 確かにあれも発酵食品だ。それに佐倉にはけっこう立派な牧場もある。
「みんなやさしい手をしていた。その中でも、おまえの手は格別だ」
「サバオ……」
「団子も甘酒もうまかったが、パンはさらにうまかった」
「それは、良かったです」
「またな」

 またね。頼子もそう言ったのだ。先週、城址公園で、サバトラのサバオに。そのまま死ぬとは思わなかったから。

「待って」
 頼子は彼を呼び止めた。
「今度もまた、猫だったらどうするの?」
 人間の女将に会えなかったら?
「その時は」
 サバオは少し間をおいて、息をひとつ吐くと、なんでもないことのように答えた。
「また日々を生きて、死んで、ここに来よう。おまえのパンを食いに」

 それから、からりと戸を開けて外に出ていった。月の、最後の光が、ひときわ強く輝いたようだ。頼子は走って外に出てみた。

 そこにあるのは、まだ明けきらぬ夜の闇と、柔らかで淡い月光、そして冬の冷気と静寂。背後に広がる竹林が、さやさやと葉を揺らす。どこかで人間の赤ん坊の声がしないか。賴子は耳をすませたが、聞こえるのは葉擦れの音ばかりだ。


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