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権藤頼子はやさしい手をしている 第六話 猫に九世有り。ただひとつでも、かけがえのない存在

第六話 猫の恩返しとは


―――小川のしま子の話

 あたしが毛皮を着替えたい理由は、おかーさんとの約束を守らなければならないからよ。
 あたしはもともと、血統書付きの猫だったんだけど、二歳くらいの時、太りすぎて、目つきも可愛くないって言われて、最初の飼い主に捨てられたのね。
 冬の、とても寒い夜のことだった。車に乗せられて、しばらく走って、突然、窓からぽーん、と外に放り投げられたの。
 道路脇の草むらに体が打ち付けられて、たぶんあたし、気を失ったんだと思う。起きたら後ろ脚が変で、腰がまっすぐにならなくて、歩きづらかった。痛くて、寒くて、何度か吐いたの。

 でもなにより、怖かった。

 それまで、外の世界なんて知らなかったから。見るものすべてが怖かった。
 風に揺れる草も怖いし、時々通る車の音も怖い。近くの森からフクロウの声がして、見つかったら食べられちゃうと思った。

 でも、月は、不思議と怖くなかったな。

 草むらの真ん中に、壊れたショベルカーが置かれてたんだけど、その下に潜り込んで何日か過ごしたの。
 でも、お腹空いちゃって。上手に歩けないし、血は乾いてこびりついていたけど、頭もくらくらしちゃって。
 頑張って食べ物を探し回ったの。水も飲めなかったけど、朝露を舐めてしのいだ。でもとにかく食べ物よね。なのに虫一匹、見つからなかった。いたとしても上手に捕れたかわからないけど。鳥なんて、電線の上でこっちを見下ろして嘲笑ってるし。
 それに、嵐まで襲ってきた。信じられないほどの風と雨。
 ここにいちゃいけない。それで、思い切って道路を渡ることにしたの。怖かったし、たくさんは走れないけど、一か八かで草むらから脱出した。

 なんとか道路を渡って、そこはどうやら住宅街になっていて、明かりを目指して前に進んだ。誰かが出てきたから、必死に鳴いた。もう、残った力をすべて振り絞って、必死に鳴いたんだ。

 そうしたら、温かくてやさしい手が、あたしを抱き上げてくれた。

 それがおかーさんだった。小川佳代っていうの。道路沿いの、古い家に、たったひとりで住んでいた。旦那さんは随分前に亡くなって、娘がふたりいるけど、めったに帰ってこない。
 おかーさんは、本当は猫が嫌いだったのよ。なんでかしらね? あたしたちほど、気高く愛情深い生き物はいないというのに。
 とにかく猫は嫌いで、犬が好き。昔、犬は飼っていたことがあったけど、猫なんて考えられない。
 でも、ひどい怪我をして死にかけていたあたしを、ほうっておくことはできなかったみたい。すぐに病院に連れていってくれて、治るまで面倒もみることにしたって。それで、治ったら里子に出すつもりでいたのよね。

 でもほら、あたし、可愛いから。

 肥って目つきが悪いとか言われて捨てられたけど、数日の野良生活のおかげですっかり痩せたし、目つきはまあ、人の感じ方はそれぞれだから。
 で、おかーさん、すっかりあたしに情がうつっちゃって、一緒に住んでくれることになったのよ。
 その時に、こう言われたの。

 よしわかった、おまえのこと、三番目の娘だと思って育てる。
 命を助けて、引き取るんだから、ご恩返しをしてくれなくちゃ駄目だよ。

 おかーさんは、笑ってた。
 でもね。目はぜんぜん笑っていなかった。
 本気の本当に、ご恩返しを望んでいたのよ。
 それであたし、そのご恩返しの約束を果たさないで死んじゃったもんだから。なんとしても、毛皮を着替えて、おかーさんのところに戻らなきゃならないの。


 しま子は話し終えて、ふう疲れた、とつぶやき、再びごろりと座布団に横になった。
 頼子はいくつか、訊きたいたいことがあった。
 例によって黒いファイルの中を確認しつつ、訊ねる。
「しま子さんは、腎不全で亡くなったのですね」
「うんそうよ。でも、たぶん、寿命ってことでしょ」
「寿命?」
「お医者さんが言ってた。十八年も生きれば、当然あちこち悪くなるって。で、あたしの場合は、腎臓がもう使いものにならなくなって、最後は水も飲めなくなって、死んじゃった」
 ファイルには、確かに、享年推定十八歳、と記されている。
 その見た目からは子猫を彷彿とさせるが、彼らは実年齢に相応する姿に化けるわけではない。それでも、しま子の場合、本当に幼い少女の雰囲気がある。

「確かに十八歳なら、寿命ということなのでしょうね」
「でしょ。長生きした方でしょ」
「でも、今のしま子さんは、人間でいえばまだ五歳か、六歳くらいに見えますね」
「あー、これね。だってあたしは、おかーさんの永遠の娘だから。ある程度小さいままなのは当たり前」
「そういうものですか」
「そうだよ。あたしの見た目がおばあちゃんだったら、娘って感じじゃなくなるでしょ」
「まあ確かに」
「何度も考えたことあったから。もしもあたしがおかーさんの本当の、本物の娘なら、どんな見た目かなあって」
 なるほど。それで、今の姿をしているのか。
「それで、ご恩返しっていうのは、具体的になにを?」
 動物の恩返しは昔話によく出てくる。ツルは極上な布を、ネズミは金銀財宝を。では、猫は?

「ずっと一緒にいること」

 よどみなく、しま子はそう答えた。
「おかーさん、寂しかったんだと思うのよ。本当の娘たちはちっとも帰ってこないし。だから、三番目の娘にするから、ずっと一緒にいてちょうだいって。それがご恩返しってものだよって。それなのに、あたし先に死んじゃって」
 彼女は本当に申し訳無さそうな顔をする。
「ねえ、人間の世界じゃあ、子供が親より先に死ぬのは逆縁っていって、最大の親不孝なんでしょう?」
「確かに、そう言われてますね」
 頼子の父は、祖母より先に死んだ。逆縁だ、親不孝だと、祖母が嘆いていたのを憶えている。

「あたし、恩返しどころか、親不孝しちゃったんだ。だからさ、一日でもはやく、毛皮を着替えたいの。血統書なんてついてなくていいよ。どんな柄でも贅沢言わないから。ね? お願い、ヨルヨル」
 頼子は胸の中で、今聞いた話を整理する。
 しま子は、十八年も長生きした。今度もそうなる可能性はある。一方で、小川佳代は七十四歳―――。

「では、今度はあなたが彼女を看取ると?」
「そのつもりよ」
「でもそうすると、あなたはまたひとりぼっちになるのでは……」
 しま子は少し考えこむ様子を見せたが、すぐに、にこっと笑った。
「そんなの、全然構わない。今度こそ上手な野良生を送れるかもしれないし。とにかく一番の恩返しは、ずっと一緒にいることなんだもの」

 ずっと一緒にいるのが、ご恩返し。
 頼子は心の中で反芻する。
 うん、わかるよ。
 わたしもね。わたしも、ずっと一緒にいたかった子がいるんだ。それが叶うなら、ほかにはなにも望まない。

「わかりました。ではさっそく、明日、調査に行きまして、結果合格となりましたら、着替えを許可いたします」
「良かったあ。合格に決まってるもん。あ、それで、カタログかなんかはある?」
「カタログ?」
「次に着替える毛皮のカタログよ」
「さっき、どんな柄でもいいって……」
 頼子が呆れて見つめると、金色の瞳がきろきろと輝く。
「あるの、ないの?」
「……ないです。毛皮は選べません」
「なんだ、つまんない」
 しま子は、ぶつくさ言ったが、やがて大あくびをひとつすると、すうっと眠りに落ちてしまった。

 どうしよう。本当は、いったん帰ってもらいたいのに。

 でもこの子、実際はおばあちゃんだから。
 仕方がない。頼子は押し入れから毛布を出して、囲炉裏端で眠ったしま子に、そっとかけてやった。そしてストーブは点けたまま、火を細く絞って、彼女が暖かく眠れるようにした。

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