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権藤頼子はやさしい手をしている 第十二話 転生を繰り返す猫の、情念の物語

第十二話 サバオはどこへ


「ええー、そんなことがあったんですか」

 一週間後、佐倉城址公園で、偶然ばったり鳴宮律なるみやりつに会った。頼子は清掃の仕事が休みなので、弁当を作り、散歩に来ていた。

 律は仕事の合間に、サバオを捜しに来たらしい。
 一週間前の話をすると、驚いた様子で目を丸くした。

「そうですかあ。サバオ、やっぱり死んだんですねぇ」
「そうみたいです」
「死体がどこにもないから。だから僕、てっきり、散歩に出かけた先で迷子になったか、もの好きに飼われたかな、なんて考えていました」
「もの好きって、サバオに失礼では」
「だってどう見ても年寄りだし、デブ猫だし、目つきも悪いでしょう。城址公園に来た際に地域猫として愛でるくらいならともかく、家で飼いたいですか?」

 分かってないな。
「あの佇まいが、猫好きの心に刺さるんですよ」
 律は、はっとした顔をした。
「確かに。サバオはある意味、猫の究極の姿かもしれない」
「まあ、どっちにしろ、あの家で猫を飼うことはできないですけど」
「そうですねぇ」

 猫の着替えどころにはいくつか謎があるが、ひとつは、生きた本物の猫が入れないことだ。あれだけの広さの敷地で、家屋も大きいのに。猫が縁側で昼寝するのにぴったりの家だというのに。それにこのあたりには、サバオ以外にも地域猫がたくさんいるというのに。

 敷地内で見かけるのは鳥くらいだ。
 猫は霊感が強い生き物だと言われている。あそこには侵し難い「場」としての空気があるのかもしれない。頼子はそう考えている。

「……もし、飼えたとしても、飼いませんけど」
 頼子は、ぽつりと呟いていた。
「サバオに限らず?」
「はい」
「意外ですね。頼子さんは、てっきり猫好きかと」
「死んだ時に、苦しすぎるから」

 昔、どんな猫より可愛い子を飼っていた。
 黒猫のヨル。

 祖母を亡くしたばかりの頃、頼子はしばらく家に引きこもる生活をしていた。しかしとうとう食料が尽きたので、深夜、意を決し、コンビニに出かけた。手当たり次第に食料を調達し、帰宅する途中、国道のど真ん中で、懸命に鳴いていた子猫に遭遇したのだ。推定、生後二週間。目がようやく開くか、開かないかの頃。

 どうしてそんなところに、という場所に彼らはいるものだ。以前やって来た小次郎や、しま子もそうだ。ヨルも誰かに捨てられたか、カラスに襲われ連れ去られたが、途中で落とされたのかもしれなかった。

 とにかく頼子は、ヨルを拾って、飼うことにした。

 あの頃、世界は頼子とヨルだけで完結していた。祖母の喪失は、ヨルが埋めてくれた。しかし三年後、そのヨルも死んだ。もともと猫エイズのキャリアだったのだが、運悪く発症し、数ヶ月の闘病の末に死んだ。

 祖母の時は覚悟があった。しかし、ヨルは、まさかたったの三年で死ぬとは思わなかった。
 そのせいかどうか、喪失感はすさまじかった。
 心と体が半分にちぎり取られたような気がした。
 そのまま、今に至るまで、半分だけで生きている。

「五年くらい前に、飼っていた猫を病気で亡くしたんです。餌をあまり食べないな、と思っていたら、口の中が真っ赤に腫れ上がっていて。慌てて病院に駆け込んだけど、もう手遅れでした。最期の二週間くらいは、わずかな水だけで生きてくれけど……結局。あの苦しみは、二度と味わいたくない」

「じゃあ、その猫が今の着替えどころに現れたら?」

 なかなか鋭い質問をしてくる。猫柄のネクタイをしめて、のほほんとした顔をしているくせに。

「……実は期待して、待ってるんです。でもいっこうにやって来ないです」
「まあ、そもそも着替えられる猫の方が少ないですしね」
「いったいどういう基準で選ばれてるんですか? 前にも訊きましたけど」
「前にも答えましたが、僕も知りません」

 吐く息がふたりとも白い。真冬の城址公園はほかに誰もいない。頼子は律と並んで歩きながら、葉をすっかり落とした桜の木立を見やった。

「……わたしのせいかもしれないと思ってます」
「というと?」
「素晴らしい猫と暮らして、素晴らしい日々をもらったくせに。たくさん助けてもらったくせに、彼の死を受け入れられない。鳴宮さんが前に言ったように、死が生の一部だとするなら。飼い猫の死もちゃんと尊厳あるものとして、納得しなくちゃならないんでしょう。それができず、未だにみっともなく苦しんでいるから、情けなく思って、来てくれないのかもしれない」

「違いますよ」

 律は静かに否定した。

「本当はもう知ってるでしょう? 彼らは時に驚くほど賢いけれど、飼い主に対し、一方的に判定を下したりなんかしない」

 確かにそうだ。彼らは健気だ。飼い主に、無償の愛を抱くものがほとんどだ。

「頼子さんが、忘れられないほどいい時間をその猫と過ごしたのなら、なおさらじゃないですか? もしかしたら、やって来るのに時間がかかっているのかもしれないし」
 もしくは、虹の橋というものが存在するとして、そこで、遊びながら待ってくれているのだろうか。頼子が訪れるのを。

「それにしても、やっぱりサバオはすごいなあ」
 律はしみじみとした声で言った。
「転生できる猫は圧倒的に少ないはずなのに、何度も、死ぬたびにそれができるなんて」

 頼子は考える。あの晩のサバオの様子と、会話の一つひとつを。
「情念ですよ」
「情念?」
「一番最初の飼い主に対する、強い想いです。生も死も超えて、サバオは、ただひたすら、彼女のそばにいたいようでした。百五十年間、八回も転生を繰り返すなんて。サバオにとっては、死は生の一部ではなく、次の可能性へのひとつのピリオドみたいな感じだった」

 小道は蛇行し、東屋と、その向こうに茶屋が見えてきた。

「鳴宮さん。サバオはどうして、名簿に名がないのに、やって来られたんでしょうか。そして、満月でもないのに、表の戸から出て、いなくなったんでしょうか」
「僕も今まさにそれを考えてたんですけど」
 律はかがみ込み、落ちている大きなどんぐりを拾う。奇跡的に虫食いもなく、割れてもいない、秋の忘れ物だ。彼はそれをハンカチできゅきゅっと磨いて、ポケットにしまった。

 そういえば、前にも同じ光景を見た。秋頃、庭のクヌギの下で、律が懸命にドングリを拾っていた。まるで小学生男子のように。頼子がそんなことを思い出していると。

「サバオの最初の飼い主、醤油屋の女将だって言っていましたよね」
「はい」
「醤油って、発酵食品ですよね」

 あ、と頼子は声をあげた。

「だからですか? 八回の転生のうち、五回は、醤油屋だった。酵母菌をたくさん浴びてたってことですか」
「ほら、酵母菌って、空中にも漂っているっていうじゃないですか。頼子さんのパンを食べなくても、あの家にいるだけで、酵母が体にくっついてくる」

 酵母は寂しがり屋だから。確かにサバオは、同じ家に転生を繰り返すうちに、酵母による力を蓄えたのかもしれない。

 東屋に到着したが、そこに猫はいない。頼子は安心したような、がっかりしたような、複雑な気持ちになった。

「ところで頼子さん、お弁当作ったんですか」
 律が、賴子のトートバックを見て、にこにこと笑う。
 まったく、本当に鼻がきく。
「ええ、まあ」
「なにを作ってきたんですか」
「カンパーニュを焼いたので……チキンのサンドウィッチとか」
 正直に答える自分も馬鹿だ。やった、と律が目を輝かせる。
「いや、これ一人分で……」
「いいじゃないですか。今度ごちそうしますから」
「……いえ、けっこうです」

 結局ふたりで東屋に腰掛け、ランチを食べるはめになった。

 スモークチキンとフリルレタス、トマト、チーズを挟んだもののほかに、ブルーベリージャムとクリームチーズを挟んだ甘いバージョンのものもある。それに、無糖の温かい紅茶をマグボトルに持参してきていた。

「鳴宮さん。猫が人間に転生することって、本当に可能だと思いますか」
「思いますねえ」
 美味しそうにサンドウィッチを食べる律は、穏やかに答える。
「前にも言ったでしょう。僕もそうなんですって」
「あー……はい」
「あ、本気にしてない」
「あの時、冗談だって自分で言ったじゃないですか」
「冗談って言ったのが冗談だったかもしれないじゃないですか」
 めんどくさいな。

「……鳴宮さんは猫というより、犬の方がしっくりくる気がします」
「ええ、初めて言われました」
「ちなみに、干支は何ですか」
「あ、いぬです」

 はい、決定。しかも柴犬っぽい。丸い目で、いつも笑っているような顔で、尻尾をふりふり。
 今も律は笑いながら、ブルーベリーサンドにまで手をのばす。頼子はそれをさっと取り上げて、半分にしてから、あらためて彼に渡した。

 律は気にする様子もなくパンにかぶりつき、目を細める。
 この人は本当に美味しそうにパンを食べる。
 それに……誰かとパンを半分こするのは久しぶりだ。

 初対面の時からずっと苦手だと思っている相手である。ただ、考えてみれば、頼子は今ではほとんどの人間が苦手だから、律が特別、嫌なわけではない。律の方が変わっているんだろう。愛想もない女にどんなに冷たくあしらわれようと、めげる素振りも見せず、常に朗らかで、感じ良く、図々しく、焼きたてのパンを求める。ドングリを拾い、大切そうにポケットにしまいこみ、死生観をさらりと述べ、半分にしたサンドウィッチを頬張る。

 冬枯れの木立の上空から、午後一番の、黄金色の陽光が降り注いできた。地面に積もった落ち葉が、かさかさと小気味よい音を立てている。

 ここは本当に美しい場所だ。

 樹齢の高い木々と、綺麗な地下水と、歴史が紡がれ保存された場所。

 いつか。無事に人間に転生したサバオが、女将と手なんかつないで、ここに来られるといい。恋人同士なのか、親子なのか、友達なのか、関係性はわからないけれど。とにかく隣に、対等な目線で立ち、茶屋で団子を半分こして食べ、他愛もない話をすることができたなら。

 サバオはもう、その生が終わったら、着替えどころには現れないだろう。

 長い情念の旅が、その時、ようやく終わるのだ。

 木漏れ日の下、頼子は甘酸っぱいジャムを挟んだパンを食べながら、そんなことを考えていた。



4話ごとの物語になっています。バックナンバーはこちら。









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