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権藤頼子はやさしい手をしている 第八話 さよならバイバイ、また会おうね。

第八話 小川のしま子が還る場所


小川佳代の話――

 もう十五、六年も昔の話だね。秋の終わりで、大きな台風が近づいてきている晩のことだった。その少し前に、上の娘に続いて下の娘も結婚して、嫁いでね。あたしは、独り暮らしだった。
 早めに雨戸を全部閉めて、雨戸がない二階の窓には養生テーブを貼って、台風に備えたんだ。夜になって、いよいよ風や雨がひどくなって、こんな日は早く寝ちまおうと思っていた。
 その時に、聞こえたんだ。猫の声がね。いや、正直、最初は猫だと分からなかった。人間の赤ん坊みたいに、でっかい声がしてねえ。それで、意を決して、市道の方へ回ってみたんだ。
 驚いたね。暗闇の中から、猫が現れた時は。最初は狸かと思ったよ。ずぶ濡れで、お世辞にも可愛らしいとは言えない、鼻ぺちゃの子でさ。足は短いし、目つきは悪いし。何より汚らしいし。正直、迷ったよね。見なかったことにしようかって。

 でもあの子は、必死にあたしの脚にまとわりついてさ。狂ったみたいに鳴くんだ。
 見捨てないでって、叫んでいるようだった。

 その姿が、胸に堪えてねえ。
 あんまり健気で、可哀想で。だから、とりあえずこの嵐の夜の間だけでもって思って、連れ帰ったんだ。
 タオルで拭いてやって、味噌汁の出汁に使ったあとの煮干しとか、茹でた鶏のササミなんかをやったんだったかね。恐ろしいほどがっついて食べて、そのあとはコテンと眠っちまった。
 よく見ると、左脚の付け根のあたりに血がこびりついていてね。歩き方もなんだかおかしいし。だから、次の日に動物病院に連れていったんだ。
 股関節を傷めていて、生涯、左脚は引きずるでしょうってさ。
 あたしは、猫は嫌いだったんだよ。だからその病院で、里親募集の張り紙をしてくれることになって、まあ飼い主が見つかるまでってことで、しばらく面倒見ることにしたんだ。
 なぜ猫が嫌いかっていうと、どうにも薄情な印象があってさ。自分勝手で、犬と違って言うことはきかないし、気まぐれで、物覚えも悪い。

 でも、そんなのはぜんぶ間違っていたけどね。

 猫ほど、愛情深くて、賢い生き物はいないよね。
 それが、しま子を飼うようになって、初めて分かったんだ。
 そう、飼うことになっちまったんだよ、結局。病院の方でも、貰い手は見つからなかったし、なにより情が移っちまって。
 しま子は、たしかに一見ブサイクなんだけど、見慣れると味わいがあるっていうか、逆に愛嬌があって可愛いというか……ほら、人間の女でもいるだろ、美人じゃないのに妙にモテる女が。

 とにかく、一緒にいるようになって、一ヶ月後には、あたしはあの子を溺愛するようになっていたんだ。

 だって可愛いんだよ。しま子は、どんな時も、あたしの視界に入る場所にいるんだ。庭仕事をしている時は木陰で昼寝したり、虫をつかまえて遊んだりさ。家に入ればついてきて、甘えたい時は膝に乗ってくる。風呂に入れば風呂の蓋の上に寝そべって、じっとしている。夜は一緒に眠ったね。あたしの右側の腹のあたりが、あの子の定位置だった。あったかくてねえ。鼻が潰れているもんだから、寝息もうるさいんだ。でもその寝息が、不思議と心地よい音でねえ。

 あたしは、しま子に言ったんだ。おまえはあたしの三番目の娘だよ。おまえはあたしに恩返しをしなくちゃなんない。それは、ずっと一緒にいることだよ。人間の娘たちは、ふたりともあたしを置いて出ていった。それはそれで幸せなことだけど、三番目の娘は、ずっと一緒にいてもらいたいってね。


 佳代は話を切り、また黙り込んだ。皺に埋もれた目は、じっと、庭先に注がれている。
「あんぱん、もうひとついかがです」
「……そうだね。いただこうか。不思議だねえ。これを食べたら、しま子のことをまざまざと思い出したよ。あの子の手触りとか、匂いとか」
「そうですか」
「死んで、もう一年以上経つのにね。ここに来たのが推定で二歳くらいだったから、十八歳くらいで死んじまってねえ。恩返しをするって約束したのに、まったく」
 頼子は自分もあんぱんをひとつ手に取り、一口齧る。酒粕酵母の風味とよもぎの香りがマッチして、もっちりとした食感だ。あんこの甘さもちょうどいい。

「戻ってきてほしいですか?」
 大事な質問を、さらりとした。

「ええ? しま子のことかい?」
「はい。小川のしま子さんに、戻ってきてほしいですか?」
「そりゃ……」
 佳代はそこで、言葉を飲んだ様子を見せた。うつむき、皺だらけの手を膝の上でぎゅっと握る。
 それから、つぶやくように答えた。

「―――いいや」

 いろんな飼い主がいる。心の底から、飼い猫に戻ってきてほしいと願う人。
 戻ってこなくてもいい、という人。
 家や経済状況の変化で猫が飼えなくなってしまった人もいる。
 自分自身が老いて、今からだともう新たに飼えないという人も。
「都内の、長女のところに行くことになったんだ」
 佳代は言った。
「旦那が死んだ時から市道向こうの田んぼは人に貸してたんだけど、そっちも綺麗さっぱり売ってね。あたしはもう七十四だ。しま子が戻ってきてくれても、最後まで飼ってやることはできないだろう。娘家族も狭いマンション暮らしだし。今度は、あたしの方が、しま子を残して逝くことになっちまう」

「しま子さんは、それでもいいって言っていましたよ」

「ええ?」
「恩返しの約束を守れず、あなたより先に死んでしまったことを、ずいぶんと気に病んでいます。子供が親より先に死ぬのは逆縁だって。だから、今度こそは、最後まであなたと一緒にいたいと」
 ははっ、と、佳代は笑ったようだった。しかし、その顔がみるみる崩れる。涙が溢れ、音を立てて、手の甲に落ちた。
「馬鹿だねえ。馬鹿みたいに律儀な子だねえ。そんな、猫が本当の人間の娘のように、長生きできるはずがない」
「でもしま子さんは、本気であなたの三女である自覚があるようでした」
 だから彼女は、人間で言えば老婆の年齢で死んだのに、幼い女の子の姿で現れた。自由奔放にふるまいながら、やけにきちんとした佇まいで、義理堅いことを言った。

 恩は返さねばならないと。

「今度こそあなたを看取って、またひとりぼっちになったとしても、構わないと言っていました」
「それは駄目だ」
 佳代は強く首をふる。
「あたしが死んで、ひとりになったら、あの子はまた、賢明に鳴くだろう。あの嵐の夜みたいに。だけど今度は、あの子を拾い、濡れた体を拭いて、抱っこして、食べ物をあげる人間はいない。今度こそひとりぼっちだ。あの子があたしを母親だと思うなら、余計にわかってもらいたい。母親ってのはね。我が子が寒い思いをしていたり、お腹を空かせた状態でいるのが、耐えられないんだ。ましてや、ひとりで、寂しがっているなんて、なおさら駄目だ」
 佳代はそう言って、顔を覆って泣いた。嗚咽が指の間から漏れ、涙が伝い落ちる。
 頼子は瞠目する。

『おまえをひとりぼっちにさせてしまうね』
 再び、病床の祖母の顔を思い出した。
 心配そうだった。
 申し訳無さそうだった。
 それから―――愛おしそうだった。
 頼子の時間を奪った祖母は、頼子にそれ以上に大切なものを与えてくれた。
 実の母親がとうとうくれなかったものを。

 頼子は佳代の嗚咽を聞きながら、黙って自分のあんぱんを食べ、お茶を飲み干し、立った。
「わかりました。では、そのように伝えます」
「ま、待って」
 縁側から離れようとした頼子を、佳代が呼び止めた。
「あの子は、今、ひとりぼっちなの?」
 頼子は答えを迷った。
 ひとりぼっち? それは、亡くなってしまったのだから、そうなのだろう。でも……。
「毛皮を着替えない猫は、生前と同じ姿で、虹の橋のたもとで待つと言われています。飼い主さんがやってくるのを」
「虹の橋……」
 虹の橋の話は、ペットロスに苦しむ人に向けた詩がもとになっていると言われている。原作者はイギリス人の女性で、自身が飼っていた愛犬の死をきっかけに創作したものだとも。死んだ犬や猫たちは、そこで、仲間たちと遊びながら、飼い主が来るのを待つという。
「とても綺麗で、楽しい場所だとか。まあ、わたしも実際に見たことはないですけど。そこでの時間の流れは、現世とは違うといいます。小川佳代さんが天寿をまっとうされた暁には、きっと、再会できるはず」
 これを聞いて、佳代はようやく泣き止んだ。うっすらと、穏やかな微笑を浮かべる。綺麗で、少し寂しそうな微笑を最後に見て、頼子は小川家を後にした。
 佳代はすぐに、今のやり取りを忘れるはずだ。残ったあんぱんを見ても、何も思い出さない。
 彼女は頼子の訪問を忘れ、また日常を送る。
 でも彼女が、可愛い三女のことを忘れることはない。

 満月が空に輝いている。
 夜半。しま子は再び裏庭からやって来た。土間の椅子に飛び乗り、テーブルに身を乗り出すと、期待に満ちた目で頼子を見た。
 胸が痛かったが、結果は結果だ。
 頼子はあえて事務的に、小川佳代の考えを告げた。
「そうなんだ。ご恩返しが、したかったのにな」
 予想に反し、しま子は落ち込んだ様子は見せなかった。ただ、つまらなさそうに唇を尖らせる。
「まあ仕方ないか。おかーさん、あたしがひとりぼっちになるのが、嫌なんだね」
「そうですね」
「分かった。あーあ。カタログがないっていうから、今度はどんな毛皮にしようか、一生懸命考えてたのになあ」
「毛皮の模様は自分では選べませんよ。でも、どんな毛皮が良かったんですか」
「うーん。あたし、しま子って名前、気に入ってたのね? だから今度もしましま模様がいいかなって。茶トラとか、サバトラとかね」
「同じ名前はつけなかったと思います」
 なにしろ飼い主は、同じ猫が毛皮を着替えてやってきたとは思わない。頼子とのやり取りが記憶に残っていないので、なおさらだ。その仕草や気配で、「生まれ変わりなのかも?」と思うことはあっても、確信は持てない。
「まあそっか。じゃあやっぱり、着替えなくてよかったのかな」
 しま子はそう言って、むしゃむしゃとパンを食べた。新しく焼いたあんぱんである。それを先日の食パンと同じように、
「うまうま、あーおいしい、うまうま」
 と呟きながら、あっという間に食べ終えると。
「それじゃあたし、もう行くね」
 さっぱりとした口調で言い、ぴょん、と椅子から飛び降りて、裏口に向かった。
 左脚を少し引きずりながら。

 着替えをしない猫は、東の戸から出ることはできない。来た時と同じ、西の戸から、帰ってゆくのだ。
 彼女は生まれ変わらない。毛皮は着替えない。

「あのさ」
 戸に手をかけた状態で、こちらに背を向けたまま、しま子が言った。
「あたし、おかーさんが好きだったの。本当の本当に、大好きだったの。いつの日かひとりになったとしても、また会いたかった。あと一回でいいから、おかーさんの布団で一緒に眠りたかったんだ」
「はい」
 頼子は小さな背中に、そっと言った。
「佳代さんも、そうだと思います。あのですね、あなたの手触りとか、匂いが恋しいって、そう言ってました」
「そっかあ」
 しま子は振り向いた。鼻ぺちゃで、大きな目。その目から、とても綺麗で透明な涙がこぼれている。

「憶えていてくれるなら、それでいいや」

 それから笑って、手をひらひらとふると、戸を開き、その向こうに消えた。
 虹の橋が本当にあるのかはわからない。ただ、あったらいいと強く思う。互いに想い合っているふたりが、また必ず会えますように。
 頼子は閉ざされたドアを見つめ、そう願った。

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