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あなたに、名前は必要ですか?

お久しぶりです。西海枝舞美です。

こんな冒頭で始まったnoteですが、私はもう、名前に拘って生きていません。

あなたの名前は何ですか。きっと私とあなたが友達になれたのならば、私はあなたを、あなたが語るその名前、またはその名称、

あだな、または、「きみ」「あんた」「ねえ」、

そんな風に呼びかけて、声をかけるのでしょう。

私は、何度も自分を失い、親から貰った名前の記憶を失い、そこに新たに名前をつけ、生きて来ました。ですがもう、最近気付いたのです。芸能人でもビジネスマンでも違う名前があり、このnoteを読むあなたにも、ネット上で使っている匿名の名前があり、

私には、持っている記憶がそれぞれ違う、沢山の名前がある。彼女、彼らには沢山の想いや記憶や考え、信念の貯蔵庫があり、信念がある。私は何度も全ての記憶を失い、友人のことがわからなくなり、自分が過去に何を行なって来たのかがわからなくなり、必死に記憶の証明となるものを探し、新たに構築し直しもうそれを失いたくないと、必死に足掻いてきた過去がある。何度も何度も、足掻き続けた過去が、その証拠が、残っています。

けれど、そんな名前を持ったアイデンティティ達も、いつかまた私の心に限界が来た時には全て、記憶と共に、消えてしまう。

悲しい。それは、とても悲しいことです。私は何度も他人に確かめてきました、「私のこと」を。繰り返す不安と、事実のカミングアウト、そして、自分自身が認められる嬉しさ、感動。認められない悔しさ、絶望感。

残った人間関係を、心から大切にしようと思う気持ち。

けれど、今のこの一連の考えさえも、またいつ消えてしまうのか、私にはわからない。

私には、普通の人の感覚が解りません。大多数の常識を自分も解っているようなフリをして。理解して、真似をして。そんな「普通の私」を前提に、ひっそりと隠し事をしつつ、何事も無いかのように振る舞って生きています。そしてもう、新しい「自分」を作っていくことに、疲れてしまったのです。

私は何度も書きました、打ち明けられる場所のないところへと、心の闇が消え去るようにと溢れる思いを、感情を、伝わらないものを幾度となく伝えました、ここでも、何度でも言います、記憶喪失は「心理的自殺」、「死に対する究極的な防衛反応」、私はもう、死ねないんです。

繰り返します、

私はもう、どんなに辛くても、自殺も出来ない。苦しみ続けることも出来ない。そういう風に脳が変わってしまっている、自らの意思の及ばないところで、身体がどうにか死を拒み続けて、今に至っているのです。


何度も繰り返す記憶喪失に対して、毎回改名だなんてしていられますか、それよりも私は日々を生きることに精一杯です。私が書類を持ってペンを握る時には、私の戸籍名を書きます。朝目が覚めた時に、昨日のことを何も覚えていなくとも何の実感がわかなくとも、私の親も、友人も、昨日書いたメモも、変わりません。私がいくら忘れようと、別の視点から世界が見えようと、ここにある世界は変わっていない、役所に残っている名前は、私の本名であり、皆が私を呼ぶ名は同じであり、私はこの社会で生きるために、そこに合わせて人生を歩んでいます。

そして、行く宛の無い気持ちを私の中に留めたまま、過去の私の積み重ねたものを使って、私は今、生きています。それは経済的な面においても、友人も、身体が覚えているスキルも、他人からの評価も。

私は、何度も名前を失ってきたこの「私」を積み上げて、これからも生きていかなければならない。そうなったならばもう、新しい名前を付けたとしてもいつかまた、記憶と共にまた全てを失うかもしれないのならばもう、名前なんて付けなくても、良いのではないんじゃないか。

私の名前は、使い捨てのものなのだろうか ー


解離性障害群の中で一番酷いもので、解離性同一性障害というものがあります。世間的にいうならば、多重人格。皆さん聞いたことがあるだろうと思います。

一つの人間の中で人格が分離する、記憶も分離していれば、性格も歳も、考え方も文体も話し方も、

信念も、利き腕も、好きな食べ物も、やりたい人生も、何もかもが違う、それがいくらでも、何人でも必要なだけ現れてくる、そんな病気です。

私は今有難いことに、人格を分裂させる必要のあるまでの、酷な環境には置かれていません。なので記憶を消すことによって精神の安定がはかられています。

私は毎日、日記を付けています。仕事用、プライベート用。前日に何を書いたかは、思い出せません。けれどこれを書いてる今も、自分にだけ書いた日記を書いた昨日にも、何かを思って生きており、何かの夢を抱えて生きています。慎重になっていることはいつも一つ、これ以上、私自身はいくら傷ついたって、他人は傷つけないように、と、

これ以上、私があなたを忘れることによって、誰をも傷つけることがないように。大切なことは、どうにか繰り返して、覚える、それは何度も、何度でも。そうやって私は、「今」を生きています。


私の周りには、優しい人しかいません。きっと、繰り返す記憶喪失により、人間関係も整理されたのでしょう。私を認めてくれる人のみがそばにいてくれる、そんな人たちと生きていく、これから、死ぬまで、いつか人は誰だって本当に死んでしまう、その日まで色んな出会いと別れを繰り返しながらも、きっと大切な人を、守っていく。

最近の私は、自分の境遇に泣き言を言う人生が、嫌になってきています。つらいならそりゃあ、つらくていいさ、名前を変えたかったら変えればいい、何個だって、インターネットのアカウントを作ればいい、携帯番号を持てばいい。化粧を変えて髪型を変えて服装を変えて、そうやって生きたいのなら生きればいい。

だけど私は、今のこの連続する私を認めてくれている、周りの人々たちを失いたくない。もう、新しい名前なんて要りません。

誰になんと呼ばれようと、もう構わないのです。ただ、それが、今この記事を書いている、「私」を指してくれてさえいればいい。皆が呼ぶ私の名前を、洗練させて行けるならば、それが私の望みです。私の名前は、私ではなく、あなたたちのためにあるのだから。


どんな大変なことがあろうとも、助けてくださった方が沢山いました。今でもそうです。事実を知る人こそ少なくとも、私のそばに居てくれる人は皆、私を助けてくれる、優しい人ばかりです。

もう失いたくない、名前は失ったって、私は失われない。逆に言うならば、「私」を失わないために脳は、何度も過去に私の名前を失わせてきた。

私の名前は、あなたのためにあるのだから。私は、あなた達と共に生きて行きたいと思っているのだから、だから、もう名前なんかに拘る必要はない。

ただ、私は私を、高めていけるようにするのみで、その私の名前が「西海枝舞美」だろうと、本名だろうと、何だっていいのだって、最近、私は私自身の生きたい考え方に気付いたのです。

noteを始めた私は、舞美という名で必死に生きようとしていました、だけど今は違います、

今の私は、また全ての記憶を失ったとしても、新しい名前を必ずしもつける必要性を感じません。

私にとって、名前は必要ないのです。あなたに渡す名前があれば、それでいいのです。

私がnoteを始めた時には、記憶を失った瞬間と同時に浮かんだ、「星倉舞美」という名、そして書き換えられた過去の記憶、それに深く向き合い、今のこの目の前の生活や過去の自分をどうにか嫌うことのないよう、新たに西海枝舞美という名をつけました。それは親が子につけるように、姓名判断にまで拘って、予測変換にまで、出る設定にして、新しいアカウントやメールアドレスまで、作って。全てを、書き換えて。

でも、もう今の私は、舞美でなくても、良いのです。


あなたには、名前が必要ですか。

そんな、あなたの名前は、何ですか。


舞美

不束者ですが、少しでも気になって頂けた方はサポートしてください。大変、励みになります。