オコナー・村上春樹・町田康 文学に戻ってみた
フラナリー・オコナー
高校生の頃読み衝撃を受けたアメリカ南部の小説家。実家で古い新潮文庫オコナー短編集を手に入れた。
「神に憑かれたようなアメリカ南部を舞台に、輪郭鮮明な飾り気のない文体で、無気味なまでに恐ろしいイメージが展開される」と裏表紙にある。
再度、オコナーを読もうか迷う。安易に影響されてしまうだろうことが予想される。だが彼女の「輪郭鮮明な飾り気のない文体」は真似することすら不可能だ。
どきどきしながらちょっぴりページをめくってみた。
オコナーは私にとっては
「神聖」であり
「憧憬」であり
「尊敬」であり
「執着」であって
この時点ですでに私は冷静さを失っている。好きな作者の文章を「冷静」に読むのはムズカシイと個人的に考える。ハルキストを自称する人やあるいは太宰治を好む人たちは冷静に「作品」と向き合うことができているのだろうか?
本当に「スゴイ」作品
歴史に残る作品
それを誰が判断するのだろう?
出版社や編集者、審査員?
よくわからない。
各種新人文学賞の審査会の内容など読んだことがあるが、審査員がなにを言っているかどうかすら私にはわからなかった。それは私に文学の知識及びセンスが欠如しているからだと今まで思っていたが本当にそうだろうか?
文学作品が「私にとって」面白いかどうかを決めるのは「私」ひとりだ。違うか?
違うかなぁ。
とはいえ、売れている作品には「売れる理由」があるのも事実で、「売れる理由」とはその時代の雰囲気、個人と集団の両方を刺激する要素、世代感受性の予測要素等が氾濫するのだろう。村上春樹さんみたいに世代の方向性をある意味決めてしまった方もいる。「売れる作品」には+時代を経ても変わらぬ人間の哀しいまでのアホさ加減なども存分に含まれているに違いない。というより、そんなことわざわざ描かずとも大前提として作家の意識、あるいは卓越した読者層の意識内には存在するのだろう。
たくさんを読む方々は「賢い」
これはずいぶん本当だと思う。
私はあまり読まない。ゆえにこの「賢さ」が備わっていない。
その意味でやはり最近の文学作品も読ませていただかないとイケナイなぁと反省などしてみる。なにせ日本文学を読んでいない。そもそも日本語活字を読んでいない。イケナイなぁ。
別にイケナカないよ。両方だな。
町田康さんは好きだったな。エッセイばつぐんに面白い。小説、「人間の屑」はおもしろかったなぁ。「くっすん大黒」も好きだな。「告白」はぶ厚すぎて途中で逃げたか流し読みのどちらかだった。忘れた。今調べたら「人間の屑」映画化されてるのね、知らなかった。
大槻ケンヂさんだっけ?彼のエッセイも好きだったな。読書、まずはエッセイから取り掛かろうかな。
林真理子さんは日大なんかに関わらず日々書きなぐっていて頂きたかった。などと思ったりする。
いろいろ事情があるのだろうけどね。