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何も求めず、囚われず生きていく。それは一体、どういう事なんだろう。

チベット・インド旅行記
#41,ブッダガヤ④

【前回までのあらすじ】まえだゆうきは、インドのブッダガヤで出会ったロシア人のサーシャと、修行の旅に出る事にした。

2004年大晦日。
ブッダガヤの日本寺は、年越し蕎麦が振る舞われるという噂を聞きつけてやって来た大勢の人達で賑わっていた。 

境内では炊き出し用の鍋が設置され、発泡スチロールの器に蕎麦が配られ、除夜の鐘がゴーン、ゴーンと鳴り響く。 
12月のブッダガヤの夜は、夜風がひんやり気持ちいいぐらいだ。

 
蕎麦も食べれて、鐘の音も聞けて、感無量のサーシャと私。
気がつけば年が変わる。
旅の日々は刻一刻と過ぎていく。

ババアシュラムではサーシャと二人、毎日座禅の修行を行った。 

朝、起床したらまずヨガで体をほぐし、座禅を組む。
日中はババアシュラムの壁に絵を描いたり、ギターを弾いたり、行きつけのチベット食堂でモモ(チベット風蒸し餃子)を食べたり、それぞれのんびりと過ごし、夜は夜で焚き火を囲みながら、サーシャが語る禅の講義をゆっくりチルアウトしながら聞いて過ごす。


サーシャの禅の講義


昔々、中国の僧侶、南岳(なんがく)の元に馬祖(ばそ)という男がやってきて、教えを乞うために庭で座禅を組んだ。

それを見た南岳は、庭の隅から瓦を持ってきて目の前でゴシゴシと磨き始めた。
気になって座禅どころではないのは馬祖。いよいよ堪えきれなくなって南岳に聞いた。

『和尚様、瓦を磨いて一体、何をやっているのです?』
『なぁに、瓦を磨いて鏡にしようと思っているのじゃよ』。

『しかし、瓦をいくら磨いても鏡にはなりませぬぞ』。
『ほっほっほ、おぬしのやっている事も一緒じゃよ。
 いくら座禅を組んでも、仏になどなれやせぬて』。

 
その言葉を聞いてショックを受けた馬祖は、己の間違いに気付き、ついには悟りを開いたのだ。

「ユーキ…、この話の真の意味が分かるか?」


いや…、サーシャ…。

ごめん。

全く分からない。


ただでさえ分かりにくい禅問答を、お互い拙い英語で話すものだから、全くもって話が掴めない。

「何で瓦?」「馬祖って誰?」など、散々やり取りした挙句、たまりかねたサーシャが「ユーキは日本人じゃ無いのか!日本人なのに何でこんな事も知らないんだ!」と憤慨して大体いつも講義は終わる。

 


そんなチグハグな禅問答が続いたある日、サーシャがインドの地図を目の前に開いてこう言った。

「ユーキ、俺は考えた。
 お前が禅をマスターする為には良い姿勢で座禅を組む事が不可欠だ。
 しかし、正直今のユーキはあまり姿勢が良いとは言えない。

 聞いた話では、ここから北に行ったマナリという街には温泉が湧き出ているらしい。
 きっと、毎日温泉に浸かりながらヨガと座禅の修行を積めばユーキの体も柔らかくなって、必ずや修行の近道になるだろう。

 きっとそうに違いない!
 さぁ、そうと決まったら列車のチケットを取るぞ!」

 
何事も一直線で、言い出したら聞かないのがサーシャの性格。
まぁ、でも確かにブッダガヤには長く滞在し過ぎたので、そろそろ次の土地に移りたい気もする。
 
 
2005年1月17日。
私とサーシャは日本寺の住職やマモさんに別れを告げ、次の旅へと出発する事にした。

深夜0時。 
オートリキシャーに乗りガヤの駅に到着する。 
駅の構内は、毛布にくるまってサナギのようになった人達の群れで足の踏み場も無いぐらいだ。

 
列車の時間に間に合うかと慌ててやって来たが、そこは流石インド時間、列車がやって来たのは予定より7時間遅れの早朝7時。
 
これでもインドでは普通なのだそうだ。
サーシャと寝台席に乗り込み泥のように眠った。

 


ガヤ駅を出発した列車はバラナシを越え、首都ニューデリーを越え、一路北へ北へ。 

カルカシムラ行きの小型列車に乗り換える頃には、ヒマラヤの山々も眼前に近く、気温も氷点下まで下がり、雪がパラパラと降り出した。


広大なインドは東西南北で全く気候が違う。
シムラの街に降り立ち、サーシャと2人慌てて毛布と上着を買い込んだ。

 
シムラの街は、山間に階段状に連なったインドの避暑地で、街中にも、郊外に広がる杉林にも雪が降り積もり、軒先には薪が積み上げられている。

 
吐く息も白い。
ポカラで買ったカシミヤのストールを首に巻き、杉林の前でバスを待つ。


「そういえばサーシャ、この間話していた『瓦の話』あったじゃない。
 あれって結局どういう意味だったの?」

「あぁ、南岳和尚の話な。
 ユーキ、仏道では煩悩が修行の妨げになる、というのは知っているな?」

 
煩悩。食欲や性欲などのあらゆる欲望の事だ。
確か除夜の鐘を108回つくのも、煩悩を払う為だと聞いている。


「ユーキ。悟りというのは無我、つまり『自分が無い』という境地の事だ。
 しかし、煩悩がある状態は、無我では無い。
 なぜならば、あれも欲しい、これも欲しいと思うという事は、『そう思う自分がある』という事だからだ。
 自分を持ったままでは悟りの境地に達する事は出来ない。

 しかし、ここで考えて欲しい。

『悟りを開きたい』。
『修行して今より優れたお坊さんになりたい』。
 
 という気持ちは、煩悩では無いのだろうか?」
 


う~ん…。 

何だか難しいけれども。言われてみればそんな気もするような、しないような…。


「だから、『悟りを求めて座禅を組む』という事は、瓦を磨いて鏡にしようとするが如く、最初から間違ったやり方なのだ。という事を『瓦の話』は伝えたかったのだ」。

(どや!俺ってすごいやろ!)
 サーシャの心の声が聞こえてきた。

 

サーシャがニヤニヤしながら、今日一番の良い事を言ったかの如きドヤ顔で私の事をじっと見ている。

 

きっと褒めて欲しいのだろう。

 
まぁ…、でも。

こうやって拙い英語を駆使して、ただでさえ難解な禅問答を解き明かしていく。というのは、旅の趣向としては中々面白くも感じる。
 
 
サーシャはサーシャで、理想とする日本人像が、私と旅をする事でガラガラと崩れ去っていっているようで、それはそれで可笑しい。

 

バスがやって来た。
降り注ぐ陽光が残雪にキラキラと当たり、プリズムが目に眩しい。


 
何も求めず。
囚われず生きていく。

それは一体、どういう事なんだろう。
そんな事をふと思った。


→マナリ編に続く



【チベット・インド旅行記】#42,マナリへはこちら!

【チベット・インド旅行記】#40,ブッダガヤ③へはこちら!


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