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田中あき子
2023年3月28日 11:02
波濤の章進水式(5) ネイサンは、つかんだ腕を引き寄せた。「そなたにとっては、私は父の代わりだろうか」 うつむいた顔を覗き込まれて、白玲は目を伏せた。「私にとってそなたは、娘ではない。大切な愛しいものなのだよ。いつからそう思うようになったのか自分でもわからないが、もう手放すことも、他人に委ねることもしたくない。だから白玲、私のところへおいで。私の妻になりなさい」 運河を渡る風の音だけが
2023年3月27日 22:41
波濤の章進水式(4) 後ろ姿を呆然と見送っているネイサンの背後で、クククっとこもった声がした。「盗み聞きとは無礼だぞ」振り向くと、カナルハイが腹を抱えて笑っている。「いやいや。白玲に間違いがあってはいけないと見守っていたんだよ。それにしても天下のネイサン卿を袖にするとは、白玲は聞きしに勝る強者だな。これは、陛下とタミアにも絶対報告しなくては」「そんな報告しなくていい」憮然としているネ
2023年3月26日 22:13
波濤の章進水式(3) 進水式を終えた一口は、アンザリ領の領都カナンへ向かった。 領主であるアンザリ辺境伯を表敬訪問した後、白玲は皇衙の官吏たちに再会した。白玲が残した仕事はオッサムが引き継ぎ、氷海沿岸の調査はさらに進んでいる。 久しぶりの里帰りで、カナルハイ妃は姫宮とともにしばらくカナンに滞在するため、カナルハイだけがネイサンの船に同乗して、ユイルハイに戻ることになった。「たまには奥方と
2023年3月25日 23:25
波濤の章進水式(2)「羨ましいように、良い家族だろう」 白玲の気持ちを見透かしたように、ネイサンが声をかけた。「皇家では、あんなに暖かい家庭を持つことは、とても難しいのだよ」 月蛾宮で暮らしてみれば、そんなことはすぐにわかる。「幼い頃のカナルハイ殿下は、両親の愛情を受けられずに育った。陛下はお子の養育には関わられないし、母である側妃様は兄の皇太子殿下にかまけていたからね。けれどもルリヤ
2023年3月23日 22:24
波濤の章告別(2) 執務の合間に、皇帝は机上に置かれた茶を引き寄せた。執務室には侍従と白玲が侍るばかり。「余は、皇太子を余の手元で育てたかった。あれは側妃の一族に囲い込まれ、世継ぎとしての学びの機会を逃したのだ」 ぬるくなった茶を差し替えようとする侍従を制して、皇帝は続けた。「即位したばかりの頃、余は側妃とナーリハイの一族に対抗する余力がなかった。だから皇太子は、国よりも母の一族ばかり見
2023年3月22日 22:31
波濤の章告別(1) トーランの棺が戻った日、そぼふる雨はユイルハイの桟橋に佇む人々の喪服を濡らした。小舟に引かれてゆっくりと接岸した船の甲板には船員たちが並び、礼砲の代わりに鳴らされた汽笛が、長く悲しい尾を引いた。 礼装の近衛士官が棺を担ぎ、喪服に身を包んだ初老の女性と、アルシーとオッサム、カナン皇衙の領事が続いた。剣を立てて礼をする兵士の間を抜けると、棺は馬車に乗せられ、月神殿の仮墓所を目
2023年3月21日 22:39
波濤の章演習船(11)「薬湯をお持ちいたしました」 ニナが捧げもった盆の上には、湯気を上げる小さな椀が載っていた。ネイサンは腕を緩めると、白玲の涙をそっとぬぐった。 白玲は温かい椀を両手で包むと、薬湯をすすってほっとため息をついた。薬草の香りが、鼻の奥にスッと抜けた。「今日は何日ですか。私はどのくらい眠っていたのでしょう。トーランとアルシーは?」 ようやく現実に戻って、白玲は矢継ぎ早に
2023年3月19日 10:11
波濤の章演習船(9) キタイの若者は皆の視線に一瞬怯んだが、続けた。「俺、確かめようとしたんだけど、ちょうどその時、持ち場から呼ばれて見にいくことができなくって。それに自分の船の帆の綱を切る船員なんているわけないと思ったし、帆が上がっても綱は切れてなかったから安心しました。俺の見間違いだったんだと思いました」若者がゴクリと唾を飲んだ。「だけど次に強い風が吹いたとき、主帆の綱が切れたんです
2023年3月17日 22:34
波濤の章演習船(8)「お立ちなさい。固い地面の上では、トーラン卿が可哀想だ」 いつの間にかヤズドが二人の隣にやって来て、アルシーを助け起こして、男たちに目配せした。トーランを乗せた担架が動き出すと、二人の娘ものろのろと後を追った。 トーランの亡骸は、港の一角ある急拵えの診療所に運び込まれた。「トーラン卿についていてあげなさい」 ヤズドはアルシーに言うと、白玲の元へ急いだ。乾いた服に着替
2023年3月15日 10:08
波濤の章演習船(7) カナンガンの港の突堤にたったアルシーは、総帆展帆で沖から近づいてくる船を見つめていた。半月ぶりに帰ってくる白玲とトーランを、少しでも早く迎えたくて、馬車を乗り継ぎカナンからやってきた。 時おり雲間から差し込む光を受けて、白い帆が輝く。港へと向きを変える船は、うっとりするほど美しかった。桟橋に降り立つトーランを見つけたら、白玲そっちのけで走り寄ってしまうかも。そう思うと頬
2023年3月13日 22:28
波濤の章演習船(5) 船員は、バンダル領の賭場でしたように、最初はごくわずかな金を賭けた。勝ち負けを二、三度繰り返すうちに、ツキの女神が微笑んだのか勝ちが続くようになった。いつの間にか船員は、賭けた金の何倍もの金を手にしていた。 今夜はこれで上がりにしようと腰を浮かせた時、賭場の男が声をかけた。「旦那、せっかくツキの女神さんがやってきたんだ。もうひと遊びしていきなよ」 船員は上げた腰を
2023年3月12日 23:33
波濤の章演習船(4) 演習船が次に入港したのは、バンダル領の港だった。 そこは水晶島から最も近く、東の海流から抜け出た船が、まずたどり着く港だった。氷海沿岸では比較的大きな港町で、市場や宿屋、両替商はもちろん、妓楼や遊郭、賭場もあった。 演習船の船員も上陸を許され、各々繁華街へと散っていった。久しぶりの陸だったから、少々ハメを外しても揉め事を起こさない限り黙認された。だが賭け事だけは厳禁
2023年3月10日 23:34
波濤の章演習船(3) 船旅はおおむね順調だった。順調でないのは白玲とトーランで、ご多聞にもれず船酔いに苦しんだ。穏やかだとは言っても、沖の波はそれなりに大きいから、足元は四六時中揺れている。二人は交代で厠に駆け込んでは、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。 甲板から水晶島が見える頃になって、ようやく船酔いを克服したが、その時には頬がげっそりとこけて、「これで視察ができるのか」と船員たちの心配
2023年3月9日 23:20
波濤の章演習船(2) 春の宵は霞がかって、そぞろ歩く運河沿いの道には人影もまばらだった。「そろそろ帰らないと、二人が待ってるわ」 早足になったアルシーを、トーランの手が引き止めた。「もう少しだけゆっくり歩こう。遅くなったら、どこかへ食べに行けばいいさ」 トーランはアルシーを引き寄せると、薄紅色の唇にそっとくちづけた。「今すぐじゃなくていいから、私のところへ来てくれないか。一生大事にす