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月と陽のあいだに 191

波濤の章

進水式(4)

 後ろ姿を呆然と見送っているネイサンの背後で、クククっとこもった声がした。
「盗み聞きとは無礼だぞ」
振り向くと、カナルハイが腹を抱えて笑っている。
「いやいや。白玲に間違いがあってはいけないと見守っていたんだよ。それにしても天下のネイサン卿を袖にするとは、白玲は聞きしに勝る強者だな。これは、陛下とタミアにも絶対報告しなくては」
「そんな報告しなくていい」
憮然としているネイサンの肩を叩くと、二人して甲板に座った。
「いい子だから、大事に守ってやれよ。アイハルが生きてたら、一発殴られるじゃ済まなかっただろうよ」
ネイサンが頭を抱えた。
「白玲にとって、私はアイハルの代わりなのだな」
「それはどうか知らないが、当たって砕けてみればいい。骨は拾ってやるよ」
そういうと、カナルハイも船室へ戻って行った。

 翌日、船はタルスイの港に入った。運河沿いのアラムの並木も、今はすっかり紅葉して、風が吹くたびに色づいた葉を落としている。白玲は船室の窓から行き交う船をぼんやり眺めて、昨夜のことを考えていた。
 白玲だって、ネイサンが言いかけたことがわからないほど鈍感ではない。でもそれを聞いてしまったら、今の居心地の良い距離が壊れてしまう。まるで父の懐にいるように、ネイサンに甘えている自分。できればこのままでいたかった。

 その夜も満天の星。甲板に座って見上げると、降るようにまたたく光の海に、時々微かな尾を引いて星が流れた。願い事を思い浮かべる暇もない。神様は初めから、人の願いなど聞く気はないのかも。トーランが死んでから、白玲は願い事をしなくなった。

「新月の夜は、星が本当に美しい。こんなにゆっくり夜空を眺めるのは、久しぶりだ」
隣にやってきたネイサンが腰を下ろすと、白玲は入れ替わるように立ち上がった。
「私はお部屋に戻りますね。どうぞごゆっくり星空を堪能なさってください」
立ち去りかけた白玲の腕を、ネイサンがつかんだ。つかまれた腕が熱い。
「最初はアラムの宴だった。輝陽国から来たばかりのそなたを、私の邸で迎えた。次は秋のタルスイ。ルーン水運でそなたを見つけて連れ帰った。カシャンの館へ迎えに行った時は寒かったな。そして今回はカナンガンだ。
 後見役になる前から、私はそなたを見つけては、迎えに行く役回りのようだ」
白玲が小さく頷くと、ネイサンは自分の隣に座らせた。
「だが、もう迎えに行くのはやめようと思う」
黒い瞳を見開いて、白玲が息を呑んだ。

「ごめんなさい……」
消えそうな声でつぶやいた。
「私も心苦しく思っていました。私は、叔父様の娘でもないのに……。それなのに、叔父様が来てくださると安心して、嬉しくて、甘えてしまいました……」
うなだれた白玲に、ネイサンは慌てた。
「そうじゃない」
白玲の腕を掴む力が強くなった。
「そなたを迎えに行くことを、苦に思ったことなど一度もない。陛下がお命じにならなくても、私はきっとそなたを迎えに行っただろう。
 氷海で船が座礁したと聞いた時、心臓を氷の手でつかまれたような気がした。そなたを失うことが怖かった。幼い頃から失うことには慣れているのに、こんなに恐ろしいと思ったのは初めてだった。こんな思いはもうたくさんだ。だから、そなたをこの手の中に、大切につかまえておこうと思ったのだよ」

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