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月と陽のあいだに 190

波濤の章

進水式(3)

 進水式を終えた一口は、アンザリ領の領都カナンへ向かった。
 領主であるアンザリ辺境伯を表敬訪問した後、白玲は皇衙の官吏たちに再会した。白玲が残した仕事はオッサムが引き継ぎ、氷海沿岸の調査はさらに進んでいる。
 久しぶりの里帰りで、カナルハイ妃は姫宮とともにしばらくカナンに滞在するため、カナルハイだけがネイサンの船に同乗して、ユイルハイに戻ることになった。
「たまには奥方とゆっくりすればいいだろう」
ネイサンは引き留めたが、カナルハイは笑って取り合わなかった。
「年頃の皇女を、稀代の色男と二人きりにするなという陛下のご命令だ」
見送る姫宮に手を振って、白玲たちを乗せた船はカナン運河へ漕ぎ出していった。

 アンザリの夜は満天の星空で、船体を打つ波の音さえ、子守唄のように穏やかだ。

「おやすみなさい いとし子よ
 お星さまが見ているから
 泣かないで いとし子よ
 母さまがそばにいるから
 おててをつないでいきましょう
 夢のお国の入り口まで
 三日月のお船に ゆらりゆらりゆられて
 泣かないで いとし子よ
 母さまがそばにいるから」

 甲板の隅に腰掛けて、白玲は小さな声で歌っていた。この国に来たばかりの夏の日、ひとりぼっちで筝をを弾いていた白玲に、ネイサンが聴かせてくれた短い曲。それが子守唄だったことを、カシャンの館で初めて知った。館の下働きの母親が、背中の乳飲み子をあやしながら歌っていたのだった。
 カナルハイ妃と姫宮たちを近くで見てきたせいだろうか、白玲は久しぶりに白村で過ごした幼い日を思い出した。
「母さまは、どんな声だったのかしら」
聞いたこともない母の声が、星の間から降ってくるような気がして、白玲はいつまでも船室に戻れなかった。

 気がつくと足音が近づいて、白玲のすぐ近くで止まった。
「いつまでも外にいると風邪をひく」
声とともに、白玲の頭上にバサリと膝掛けが降ってきた。
「星を見ていたのかい? また一人で泣いているのかと、探しにきたんだが」
「そんなにいつも泣いているわけではありません」
礼を言って白玲が膝掛けにくるまると、ネイサンが隣に座った。
「そなたがカシャンの子守唄を知っているとは、意外だった」
答える代わりに、白玲はもう一度小さな声で子守唄を歌った。膝を抱えて俯いて。

「白玲」
呼ばれて顔を上げると、ネイサンが真っ直ぐに見つめていた。ぶつかった視線が熱を持っているようで、白玲は慌てて目をそらした。くしゅんと小さくくしゃみをすると、ネイサンの温かい手が頬に触れた。
「すっかり冷えてしまったから、お部屋に戻ります」
白玲は立ち上がってお辞儀をすると、小さな足音を残して船室へ帰っていった。

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