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月と陽のあいだに 183

波濤の章

演習船(9)

 キタイの若者は皆の視線に一瞬怯んだが、続けた。
「俺、確かめようとしたんだけど、ちょうどその時、持ち場から呼ばれて見にいくことができなくって。それに自分の船の帆の綱を切る船員なんているわけないと思ったし、帆が上がっても綱は切れてなかったから安心しました。俺の見間違いだったんだと思いました」
若者がゴクリと唾を飲んだ。
「だけど次に強い風が吹いたとき、主帆の綱が切れたんです。それから後のことは、あんまり覚えてません。気がついたら海に投げ出されて、近くの板につかまっているところを助けられたんです」
 船長が若者の肩をつかむと、その男の顔を見たかとたずねた。
「顔は陰になってて、よくわかりませんでした。だけど、その人の腕に鳥の羽の形のアザがありました」
 もう一度よく思い出せ、と言われたが、若者は間違いありませんと言い切った。

 船長が一人の船員の名をいうと、司令官は従者にすぐにその男を連れてくるように命じた。だが、男はどこにもいなかった。海に投げ出されていたところを助けられて、桟橋に上がったところは他の船員が見ていた。それから後、船員たちが集会所に集められた時には、その姿を見たものはいなかった。
「あの男は、臨時に雇った船員でした。甲板員の一人が、出港直前に腕の骨を折る大ケガをしたので、港の口入屋に代わりを探してもらったのです。腕はいいが博打好きで、前の船を解雇されたということでした。普段なら雇わなかったが、出港も迫っていたし、本人も二度と博打はしないと約束したので船に乗せました」
 船長の話を聞いていた司令官が、船員たちにたずねた。
「上陸地で、その船員と行動を共にしていたものはいるか?」
居並ぶ船員たちは互いに顔を見合わせていたが、やがて誰もが首を横に振った。

「手分けして、その船員を探せ。船長は我らと共に、船に戻ってもらいたい。もう一度主帆と支え綱に異常がなかったかどうか調べよう」
司令官は部下に指示すると、白玲に向き合った。
「殿下は宿舎にお戻りください。大切な御身、障りがあっては陛下に申し訳がたちません」
 白玲はうなずくと、調査の結果を知らせてくれるように頼んで、ヤズドと共に集会所を後にした。

 ヤズドは真っ直ぐに宿舎へ向かおうとしたが、白玲は診療所に行きたいと頼んだ。アルシーが気がかりだった。ヤズドは診療所ではなく、町の月神殿に向かった。
 検死を終えて綺麗に身繕いされたトーランの遺体は、神殿の一室に安置されていた。そっと扉を開けると、棺の前でうずくまっていたアルシーが顔を上げた。

「トーランは、私をかばって身代わりになったの」
白玲はアルシーの前にひざまずいた。
「トーランを死なせてしまって、ごめんなさい」
白玲は深く深く頭を下げた。丸まった背中が小刻みに震えていた。白玲はいつまでも顔を上げなかった。アルシーはのろのろと白玲に近づくと、何も言わずに抱きしめた。
「お二人とも宿舎へ戻りましょう。トーラン卿は、神官様が守ってくれます」
 ヤズドの言葉にアルシーはかぶりを振ったが、神官に「今夜は私がずっとおそばでお守りいたしますから」と言われて、何度も振り返りながら宿舎へ戻って行った。

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