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月と陽のあいだに 179

波濤の章

演習船(5)

 船員は、バンダル領の賭場でしたように、最初はごくわずかな金を賭けた。勝ち負けを二、三度繰り返すうちに、ツキの女神が微笑んだのか勝ちが続くようになった。いつの間にか船員は、賭けた金の何倍もの金を手にしていた。

 今夜はこれで上がりにしようと腰を浮かせた時、賭場の男が声をかけた。
「旦那、せっかくツキの女神さんがやってきたんだ。もうひと遊びしていきなよ」
 船員は上げた腰を再び下ろすと、勝った金の半分を賭けた。今夜はツイているから大丈夫だと大きな声で賭けた船員は、出た賽の目に肩を落とした。あっという間に、目の前の勝ち金が半分消えてしまったのだ。そんなはずはないと残りの勝ち金を賭けたが、今度も狙った目は出なかった。
 ここで止めればよかったものを、先程の勝ちが忘れられない船員は、懐の金を少しずつ出しては賭けた。しかし、ツキはすっかり離れてしまったように、金はみるみる減っていった。気づいた時には、家に持ち帰るはずだった金まで注ぎ込んで、無一文になっていた。この時ようやく船員の脳裏に、あばらやで待つ女房と乳飲み児の顔が浮かんだ。背筋を冷たい汗が流れた。

「どうしたね。元手がないなら少し貸そうか?」
 先程声をかけてきた男が、船員に耳打ちした。
 このままでは帰れない。船員は胴元からいくらかの金を借りると、賭け台に戻った。今度こそはと思ったが、賽の目は思惑を外れて、金は目の前からどんどん消えていく。とうとう返せないほどの借金だけが残り、船員は賭場の隅で目つきの悪い男たちに囲まれてしまった。
「船に戻って、給金を前借りするってのはどうだい?」
 男たちに凄まれても、船員は答えることができなかった。賭場へ出入りしたことがバレれば、前借りどころか解雇されてしまう。真っ青になった船員は頭を抱えた。
「兄さん方、お待ちなさい」
男たちの後ろから、声をかけるものがあった。

 賭場の男たちが振り返ると、中年の商人風の男が立っていた。商人は、威嚇するような男たちの視線を飄々と受け流す。
「一見のお客に、少々やり過ぎじゃありませんか。どうです、そのお方の借金は、私が代わりに支払うということで。今日のところは、それで許してやってください」
 商人は懐から財布を出すと、胴元の卓にコトリと置いた。中には船員が借りた額より多い金が入っていた。
「あんた、命拾いしたな。どこのお方か知らねえが、地獄に仏とはよく言ったもんだ」
 賭場の男たちは船員の囲みを解くと、部屋の向こうへ行ってしまった。船員は商人の足元にうずくまると、何度も何度も礼を言った。

「こういうところは、気をつけなくちゃあ。お前さん、すっかりカモにされていたよ。見ていて気の毒になってしまってね」
 商人はそういうと、親しげに船員の方に手を置いた。
「さあ、顔を上げて。お前さんの気持ちのいい賭けっぷりを見込んで、一つ頼みがあるんだが……」
 一も二もなく頷いた船員に何やら耳打ちすると、商人はその懐に重たい巾着を捩じ込んだ。びっくりした顔の船員が「ご冗談でしょう」と聞き返した。
「冗談でこんなことを頼みませんよ」
口調は穏やかだが、商人の目は笑っていない。
「お前さんが断るなら、奥さんと子どもを預かってもいい。誰もいない家に帰るってのは、寂しいもんだよ」
 商人の言葉に、船員はごくりと唾を飲み込むと、青白い顔で頷いた。
「頼みましたよ」
商人に見送られて賭場を後にした船員は、幽霊のようにふらふらと船に戻っていった。

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