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月と陽のあいだに 182

波濤の章

演習船(8)

「お立ちなさい。固い地面の上では、トーラン卿が可哀想だ」
 いつの間にかヤズドが二人の隣にやって来て、アルシーを助け起こして、男たちに目配せした。トーランを乗せた担架が動き出すと、二人の娘ものろのろと後を追った。
 トーランの亡骸は、港の一角ある急拵えの診療所に運び込まれた。
「トーラン卿についていてあげなさい」
 ヤズドはアルシーに言うと、白玲の元へ急いだ。乾いた服に着替えた白玲は、紫色の唇を引き結んだまま、毛布にくるまっていた。トーランのおかげで傷は軽く、ヤズドの姿を見ると、休んだ方がいいと止める医師に礼を言って立ち上がった。
「私は皇女です。自分の務めを果たさなければ」
そして蒼白な顔を上げると、ヤズドと一緒に船員たちが収容されている集会所へ向かった。

「船が傾く直前まで、何もかも順調だったんです。波もそれほど高くなかったし、風も穏やかでした。これは事故なんかじゃありません」
 集会所へ向かった歩きながら、紫色の唇を震わせて白玲は言った。
 船が傾くあの瞬間まで、誰一人無事な帰還を疑わなかった。座礁した船から振り落とされた乗組員は、駆けつけた仲間の船に助けられ、船に取り残された乗組員もほとんどが軽傷で済んだ。亡くなったのは、横柱の直撃を受けたトーランともう一人の船員だけで、運が悪かったと言うには、あまりにも無念な死だった。
「アンザリ領軍の司令官が、船員を集めて事情聴取を始めています。船に残っていた者も戻って点呼を行いましたが、重傷者は数人で、船長も航海士も無事です」
 白玲が集会所に入ると、気づいた船長が跪いて詫びた。
「私も乗組員の一人です。どうか詫びなどおっしゃらないでください」
 白玲は船長の手を取って立たせると、アンザリ軍の司令官に「皇衙の代表として、事情聴取に加わりたい」と申し出た。

 船長や航海士をはじめとする船員たちは一様に、船に異常はなく、波も風も穏やかで入港の準備は万全だったと話した。その時、一人の若者が白玲に近づいた。頬に入れ墨のある若者は、二人の航海士と一緒に漂着したキタイの見習船員だった。若者は演習船に乗船している間、キタイ語を話せるトーランと親しくなり、トーランも彼を弟のように可愛がっていた。
「姫様、トーランさんは無事ですか?」
 問われた白玲は、唇をかみしめてうつむいた。黙り込んだ白玲の代わりにヤズドが答えると、驚いた若者の目にみるみる涙が盛り上がった。若者はひとしきり涙をこぼした後、拳で涙を拭って話し始めた。
「入港準備が始まる少し前、一人の甲板員が主帆の綱の束の上にかがみ込んでいたんです。綱の準備はとっくに終わっていたから、何をしているんだろうと思っていると、その人の手元に日が差してナイフみたいなものがキラリと光ったのが見えました」
 周りの人々の視線が、一斉に若者に集まった。

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