見出し画像

月と陽のあいだに 176

波濤の章

演習船(2)

 春の宵は霞がかって、そぞろ歩く運河沿いの道には人影もまばらだった。
「そろそろ帰らないと、二人が待ってるわ」
 早足になったアルシーを、トーランの手が引き止めた。
「もう少しだけゆっくり歩こう。遅くなったら、どこかへ食べに行けばいいさ」
 トーランはアルシーを引き寄せると、薄紅色の唇にそっとくちづけた。
「今すぐじゃなくていいから、私のところへ来てくれないか。一生大事にする。母もきっと君を気に入ると思う。君が宮で侍女を続けて私が近衛なら、ずっと一緒にいられるだろう」
 返事は気長に待っているよと言われて、アルシーはトーランの体にそっと腕を回し、逞しい胸に頬を寄せた。

 アルシーは、近衛士官というのは皆、ナダルのように寡黙なのだと思っていた。だから最初は、物腰の柔らかいトーランを頼りないと思った。けれども時間が経つうちに、トーランがとても優秀な近衛だとわかった。目配りのきくトーランは危険を察知するのが早く、武術や体術にも長けている。皇帝が、遠方へ送り出す孫娘の護衛につけたのもうなずけた。料理はからきし下手だけれど、食いしん坊で愉快なトーランを、アルシーはいつの間にか好きになっていた。一緒にいると安心する。月蛾宮に帰っても、同じ宮で働けたらいいと思うようになっていた。

「おじいちゃんも亡くなって、私には身寄りがないけれど、それでもいいの?」
 心配そうにアルシーがたずねると、その頬に触れながらトーランは笑った。
「君はコヘル卿のたった一人の孫娘で、立派な宮廷女官だよ。なんの問題もないさ」
 抱き合って頬を寄せる二人を、春の宵闇がそっと包み込んだ。

 海が明けて雨季が始まるまでの数週間、氷海は一年で一番穏やかな顔を見せる。たゆたう波は揺かごのようで、小さな漁船も沖まで漕ぎ出すことができた。
 着任から一年余り、白玲は氷海航路開発のために、沿岸の港の視察を考えていた。そんな時、昨年就航した中型帆船が演習航海に出るという話を聞きつけた。まさに「渡りに船」だとばかりに、この船に乗船する許可をもらい、氷海沿岸の港を訪ねることになった。

 船は南風を利用して、最初に水晶島へ向かう。そこから風を間切りながらバンダル領の海岸沿いを西進し、いくつかの港に寄港しながらカナンガンへ戻ってくる。二週間ほどの旅だった。試作船として建造された演習船は、すでに何度も外洋航海を繰り返し、熟練した船長に率いられた船員たちは、皆優秀だった。

「何も心配はいらないよ。帰ってきたらユイルハイへ行けるように、支度をしておくといい」
 カナンガンの港まで見送りにきたアルシーを、トーランが抱きしめた。
「船には私以外の女性はいないから、浮気の心配もないしね。上陸して遊郭とか行かないように、見張っておいてあげるわよ」
 後ろから声をかけられて、驚いた二人が慌てて離れると、白玲がニヤニヤ笑って立っていた。
「このおじゃま虫!」
 アルシーに小突かれて、白玲は「ごめんごめん」とひらひら手を振りながら、仲間の方へ行ってしまった。
「迎えに来るから、無事に帰ってきてね」
 わかったよと笑ったトーランは、人目を盗んでアルシーにくちづけると、護衛の顔に戻って白玲の後を追った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?