月と陽のあいだに 187
波濤の章
告別(2)
執務の合間に、皇帝は机上に置かれた茶を引き寄せた。執務室には侍従と白玲が侍るばかり。
「余は、皇太子を余の手元で育てたかった。あれは側妃の一族に囲い込まれ、世継ぎとしての学びの機会を逃したのだ」
ぬるくなった茶を差し替えようとする侍従を制して、皇帝は続けた。
「即位したばかりの頃、余は側妃とナーリハイの一族に対抗する余力がなかった。だから皇太子は、国よりも母の一族ばかり見るように育てられた。今になって、何よりそれが悔やまれる」
そこへお座り、と皇帝が指差した。机の背後に立ったまま控えていた白玲は、傍の椅子に腰掛けた。
「せっかく官吏になったのに、宮に戻されて悔しかろう」
白玲は、小さく首を横に振った。
「余は残念に思う。身の危険さえなかったら、官吏として国中を回って民の声をつぶさに聴き、そなたにしか見えないものを見てきて欲しかった。かつて、アイハルがそうだったようにな」
父の名を言われて、白玲ははっと顔を上げた。
「だが、皇家の次の世代を担うものは少ない。そなたと同世代の皇子は、皇太子の長子シュバルだけだ。余の息子たちは、男子をもうけなかった。そなたたちの時代には、そなたもシノンもカナルハイの姫たちも、皇女であろうと否応なく政に関わらなければならなくなるだろう。
シノンは、あの若さで月神殿をよく支えている。そなたは余の近くで、国政を学ぶが良い。そしてふさわしい伴侶を得て、皇家の血筋を継ぐ子を産むのだよ」
白玲は、思わず椅子から立ち上がって跪いた。
「身に余るお言葉でございます。私のような未熟者が、陛下のおそば近くにお仕えすることすら、もったいないことと思っておりますのに」
よいからお座りと、皇帝が微笑んだ。
「演習船のことは、アンザリ軍が調査を続けている。余の『目と耳』はオラフ・バンダルの行方を追っているが、何かと邪魔が入るようだ。我らを妨害するものがあるのだろう」
宮へ戻ってすぐの頃は、トーランを失った悲しみで、あの日のことを考えることさえできなかった。しかし落ち着いてくると、船で何が起こっていたのか、少しずつ冷静な目で見ることができるようになってきた。
横柱が落ちてくる前に、甲板に出た白玲に体当たりしてきた船員がいた。トーランはその男を突き飛ばしたのだ。船が傾いたせいだろうと思っていたが、もし白玲に危険がないなら、トーランは船員を助けただろう。白玲には見えなかったものが、トーランには見えたのではないだろうか。
あの船員はきっと、最初から私を狙っていたのだ。演習船を沈めても誰も何の得にもならないのだから、あの座礁事故はただの撹乱だったのではないか。そう考えたとき、白玲の脳裏にオラフの顔が浮かんだ。
本当の目的は白玲の暗殺で、それを事故に見せかけるために二人の尊い命が失われたのなら、犯人を絶対に許すことはできない。
一刻も早く探し出してトーランの無念を晴らしたいと、白玲は強く思った。
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