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立ち止まる、抗う勇気と割り切り

ホントにそれでいいのか?

国土交通大学校のPPP/PFI研修

毎年の恒例行事になっている国土交通大学校のPPP/PFI研修。「PPP/PFI事例」「官民対話」の2コマの講義と最終日の受講生のプレゼンを聞きコメントするという貴重な機会をいただいている。全国の自治体職員のトレンドや現状を肌で感じる・理解できることもできるので、関係者の皆様には本当に感謝しかない。

ただ、毎年のように(研修内容・プログラムの問題もあるのかもしれないが)受講生による最終発表ではデジャヴかと思うようなザ・PPP/PFIのハコモノ・基盤整備事業が提案される。「みんな・賑わい」といったNGワードが連発し、市場性・経済合理性やニーズはお構いなしに地域住民(や団体)からの要望だけが立法事実になっていたり、支払いを平準化するためだけにPFI法に基づくPFI(BTO方式のサービス購入型)が前提となっていたり。
今回もこのような案件には「自分の金だったらやるのか?100万円でいいから出そうと思えるか?」「何のためにやるの?」「本当にこれがしたいの?」等のコメントをさせてもらったが、やはり即答できる人はいなかった。

どうせうちのまちでは

いろんな自治体からの相談をいただくなかで「こんな考え方もあるんじゃないか?」「〇〇の事例が近いので、そこから学ぶこともできると思うんだけど」等と話しても「どうせうちのまちでは・・・」「うちには〇〇さんのような人はいないから」「うちの首長・議会・上司は・・・」等、ダメダメ時代の碇シンジくんのような全否定で思考停止・フリーズしてしまうことが多い。
自分も全国47都道府県、あらゆるところに行っているが、「捨てていい」と思うようなまちは一つとして存在しないと確信している。どんなまちでも必ず「何か」に希望を感じて逞しく生きている民間のプレーヤーが必ずいるし、そのような方々によってまちの生命が成り立っている。

あなたが、あなたの周囲「だけ」がネガティブなだけで、まちの未来に至るポテンシャルを捨ててはいけない。

やれと言われてるから

「上からやれと言われているから」「引き継ぎで自分の仕事とされているから」「基本構想でそうなっているから」とりあえずやろうと考えているけど、相談できる人もいないし予算もないからどうしたものか、まずは期限までにとりあえずハコモノだけは整備したいといった相談も多い。(中には「まちみらいはホームページで金額を公表していて他のコンサルよりも安いから」といった失礼な枕詞を丁寧につけていただいたこともあるw)
なんでもそうだが、「やらされている」時点で自らの強い意志が欠如しているので負けである。

やっつけ仕事で「とりあえず」間に合わせたハコモノに魂が宿ることはない。全国に乱立する墓標、誰も使わない都市公園などに共通するのは、無機質で人の匂いがしないことである。具体的に言えば「誰が・何をやるのか≒コンテンツ」が皆無でただの物理的な要素しかないものである。

「やれと言われてるから」の時点で魂がそこにはない。
魂のこもっていない・立法事実も希薄な基本構想は本当に正しいのか?その瞬間が立ち止まる・引き返すポイントの一つになるはずだ。

東洋経済の2024年5月11日号で指摘された「喰われる自治体-溶ける地方創生マネー」そのものである。

あなたが楽をする、やってる感を出すためにまちの貴重なリソースを浪費してはいけない。

ホントにそれでいいのか?自問自答

上記のような思考回路・行動原理(や結果としてまちの衰退を招いてしまうこと)に陥ってしまうことは、「やったこともない・やっていくうえでは困難が連続する・(苦労して)やっても評価されない・孤軍奮闘しなければいけない・コンプライアンスとかで叩かれる」等の非合理的・ムラ社会の行政ではわからなくもない。
ただ、「ホントにそれでいいのか?」を自問自答してほしい。
オガールの岡崎さんが言われるように「俺たちは死ぬけど風景は残る」こと、その事業の原資は市民が必死になって働いて得た対価から捻出された貴重な税金であること、友人や家族に「どんな仕事してるの?」と聞かれて胸を張って答えられるか考えてほしい。

一人でできることは限られているし、理想どおりに進むことも現実的にはあり得ないが、いろんな人・主体が得意なリソースを持ち寄り掛け合わせながら試行錯誤を繰り返すことで「人の匂いがする」場になっていくはずだ。その第一歩が「ホントにそれでいいのか?」に対する自問自答と個人としての覚悟・決断・行動である。

立ち止まる・引き返すチャンス

ヤバいと思ったら立ち戻る・引き返す。
これまでの行政が苦手だったことだが、冷静に考えればここ数年で多様な立ち止まる・引き返す方法論が生まれてきたように思う。

第二次世界大戦の「失敗の本質」を未だに引きずって「令和版失敗の本質」をやっている場合ではないので、いくつかの方法論を考えてみたい。(もちろん簡単ではないし、これをやれば確実になんとかなるわけではないが、試す価値は十分にあるだろう)

サウンディング

ここ10年間の行政の政策立案プロセスで大きく変わったことの一つがサウンディング型市場調査である。横浜市が発案したこの仕組みは、構想段階からそのプロジェクトに関わりうる民間事業者と直接対話していくことで、市場性や経済合理性を確認して「こんなはずではなかった」というそもそもの失敗を予防する手法として定着してきた。

サウンディングの留意事項等はこちらのnoteにまとめているので割愛するが、ビジョン・コンテンツ(と与条件)を整理して丁寧に実施すれば、可能性調査やアドバイザリー業務など行わなくても性能発注の要求水準書は必ず自分たちで作ることができる。

事例としては古いが、上記の須崎市ではサウンディングの結果、「自分たちの描いていた夢が全く市場性に合わない」ことも客観的なデータとして示され、事業そのものが立ち止まることとなった。これは決して悪いことではない。
通常のコンサルへの業務委託においてコンサルから「やりたいことが市場性に合わない」といった案を提示されたら「そうじゃなくてどうやったらできるか示すのがコンサルだろ!」となったり、「あたかもできるようなリアリティのない計画」を提示してやり逃げされてしまい、本物の市場と向き合うことはできなかった。

現在でも「コンサルにサウンディングを委ねる」事例が多数見られるが、コンサルはサウンディングから都合の良いデータだけ切り取って、悪質な場合には付き合いのある民間事業者と適当に話した内容をベースにそれらしい形で「歪んだ市場を行政に提供」する。だから「こんなはずではなかった」案件が全国各地で生まれ続けてしまう。

サウンディングで大切なのは、行政の職員が自ら営業し、自分たちで肌感覚を掴むとともに、自分たちの熱を民間事業者へきちんと伝えたり徹底的に議論するなかで案件をブラッシュアップしていくことである。
同時に「描いていた夢」にリアリティがないことがわかった場合は、きちんと立ち止まる・引き返す(時間軸を戻す)ことが大切であり、そのことを恐れるようではサウンディングは所詮アリバイ作りにしかならない。そのような行動原理・思考回路では上記のコンサルと同じ思考回路・行動原理で同じ穴のムジナでしかない。

議会

ここ10年間でもう一つ大きく変わってきたことは議会(議員)である。大東市においてmorinekiの2期プロジェクトを政治的な理由で否決するなど、古臭い慣例や「執行部にかましたれ!」といったつまらない風習が残っている(顕在化する)事例が存在することは間違いないが、確実に大きく変わっている。
何が変わっているかといえば、二元代表制をきちんと理解しながら「執行部を応援すること」によって自らの政策を実現しようとする現実的な議員が(全体から見ればまだ少数ながらも)圧倒的に増えてきたことである。

執行部の職員は、こうした「信頼できる」議員をうまく活用して一般質問で「わざと」質問させるように仕向けて議事録という形でログを残し、外堀から確実に埋めつつ既成事実化していくこともプロジェクトを実現していくために有効・必要な事柄になってくる。同様にヤバいハコモノ事業を未然に防止する(≒立ち止まる・引き返す)ためにもこの方法論は十分に使える。
本来は(このような姑息な手段を取らずとも)執行部が自ら立ち止まったり引き返すべき(≒執行権の行使)であるが、現実的にはこれまで市民・議会等へ「それらしく」説明してきてしまったがため、引っ込めるのが難しくなっている場合もある。そこで、議会からグサっと本質に踏み込むこと(≒後ろから蹴っ飛ばすこと)で正気に戻る(こともありうる)。当該議員にとっても、(きちんとした有権者が支持者となっているはずなので、)このようなことを毅然と執行部に公の場で指摘・提言していくことで、自らの票につながっていく。

同時にこのような議員を増やしていくためには、執行部と議会のマインド・温度感の共通認識を醸成していくことが必要になる。議会との情報の非対称性を生じさせないよう職員研修・セミナーには議員にも参加してもらったり、日常的に意見交換を図るなど「正しく」距離感を縮めていく地道な努力が求められる。

マスコミ・SNS

マスコミやSNSをうまく活用することも手段の一つになりうる。長野市の青木島遊園地のように行政が旧来型思考回路・行動原理で保身に走って判断を誤り、世論と離れた選択をしてしまうとあっという間にSNS、マスコミで大炎上して立ち止まる・引き返す道すら失う。この事例では最初の段階で「長野市もたった一人の周辺住民の苦情で困っている。なんとか解決できる道を探りたい」ことをうまくSNS、マスコミに発信できたら全く違った世界線があったのではないだろうか。

同様にヤバい事業が進行しそうなとき、庁内や議会も含めてコントロールが難しそうな事態に陥りそうだったら、どこにボトルネックがありそうなのかを「うまく」SNS等を通じて発信し、インフルエンサーに情報が正しく届けば立ち止まる・引き返せるチャンスも出てくるだろう。

現代の情報化社会で行政もDXを掲げているのであれば、SNSやマスコミを使って世論を味方につけていくことぐらい、常套手段として身につけておくことが自治体経営で行政に求められるスキルの一つであるはずだ。

データ

こうした様々な手を駆使していくためには、根拠として様々なバックデータが必要となる。イニシャルコストだけでなく、維持管理費・人件費なども含めたランニングコストも提示して、(行政の場合は必ずしもキャッシュだけである必要はないが、)そこから得られるリターンが経済合理性のあるものなのかを示すことも選択肢になる。そして、別のやり方を行った方がより大きな成果が得られることを提示して議論を促すことも重要だ。
例えば、1人の児童生徒が年に数回しか活用しない小中学校のプールは200百万円ものイニシャルコストをかけて改築するよりも民間の屋内プールを活用してバスで送迎する方が圧倒的に安く、かつ天候リスクも回避できる。何よりもプロが指導することで子どもたちの泳力を圧倒的に高めることができる。
これをもう一歩進めれば、そのまちの小中学生に2年間、スイミングスクールに通う費用を全額行政が負担することで「更に高い泳力向上につながる、バス移動の時間をなくす、学校のカリキュラムを他のことに回せる、教員のリスク・負担をゼロにできる、民間のスイミングスクールにお金が回る、コストももちろんプールを改築するより圧倒的に安い」等の政策に転換することができる。
定量的なデータだけでなく、前述の須崎市におけるサウンディングの結果も定性的な「客観的なデータ」として十分に活用できるはずだ。

「立ち止まる・引き返すこと」は決してネガティブな選択肢ではなく、他のもっと良い道を模索するきっかけになる。

悪魔の囁き・魔の手

しかし、こうした「立ち止まる・引き返す」ことを行おうとすると、自分の心の中にも「そんな無理することないよ、引き返したら大変だよ、吊し上げられるよ」という悪魔の囁きが聞こえてくる。
そして、そうした心の弱ったところには個人に対してだけでなく、組織にも必ずハイエナのように魔の手が怒涛のように襲いかかってくる。

コンサル

コンサルに可能性調査・アドバイザリー業務等を(丸投げ)委託している場合は、どんなに質が低い・リアリティがない・そのまちの将来に大きな禍根を残す事業であっても、発注関連図書(実施要領・要求水準書等)や〇〇計画といった形で納入しないとコンサルはフィーが得られないため、全力で「大丈夫ですよ!いいプロジェクトになりますよ!」と発注者たる行政を唆す。
ピュアな行政は心のどこかでは不安・不信を感じながら、懸念も抱きながらも「高い専門性を持つコンサルが言っているんだから、高い委託費を払っているから間違いはないはずだ」と弱った心は悪魔に負けてしまう。担当者・担当課は業務を完了できないと内部や決算審査で袋叩きに遭うため、ヤバいことを認識しながらも見ない・知らなかった・予見できなかったフリを決め込んでしまう。

更に悪い場合には、こうした「立ち止まる・引き返す」ための支援をしましょう!と同じ穴のムジナだったはずのコンサルが群がってくることである。大概、このような場合は真剣に「立ち止まる・引き返す」のではなく、別の形のハコモノ事業に置き換えましょう、より多くの補助金・交付金を取りましょう(、なぜか公共施設等適正管理推進事業債を活用して難しいことはせず従来型発注でやりましょう)と更にダークサイドに引き込んでいく。

(議員も含めて)行政の関係者は、「コンサル(や審議会等の有識者)は結果責任を伴わない」こと、結果がある程度見えた時点では満額のフィーを得てビジネスとしては手離れしていることを忘れてはならない。そして、どのような悲惨な事態が待っていようともその結果責任を負うのは「そのまち」でしかない。

「立ち止まる・引き返す」覚悟・決断・行動をしようとすれば確実に心がすり減る。そうしたときに忍び寄る魔の手・悪魔の囁きにどれだけ抗えるかは、どれだけ普段からまちに向き合っているのか、まちに繰り出して一人ひとりの市民がどれだけ必死になって生きているのか見えているかによる。

既成事実

大きな事業になればなるほど、「やる」までには上記のコンサル委託・有識者委員会の開催・類似事例の視察などで、様々な膨大な時間・税金・マンパワー等のリソースを投下するだけでなく、市民や議会への説明も「議会軽視」と言われないために必要以上に行うことが求められる。

このように時間や金を使ってきてしまったこと、その過程では「うまくいかない」ことなど全く想定せず、バラ色の未来が待っていることを前提に関係各所に説明してしまっていること自体が既成事実になってしまう。そこに「行政は失敗してはいけない」という謎の神話が掛け合わされることにより、「立ち止まる・引き返す」選択が取りにくくなる。(行政が本当に失敗しない・失敗したことがないのだったら、計画行政が本当に機能しているのだったら、全てのまちは「みんな」が楽しく暮らせて「賑わって」いるはずだ。←※だから「みんな」「賑わい」などのNGワードで誤魔化してはいけない)

実際に自分もあるまちで人口・財政規模からスケールアウトした新庁舎の建設事業に対して「立ち止まる(少しでも経済合理性をよくする)」ことを提案したら「今まで執行部が市民・議会に対して説明してきたことがあたかも誤りであったような誤解を与えた、謝罪文を出せ!」となり、出禁になってしまったこともあるorz

行政の場合は損益分岐点や撤退ラインを設定することがなく、経済合理性も確認しないまま(※事業手法比較表や短絡的なVFMは経済合理性ではない)、「こうあったらいいな」「多分こうなるだろう」で物事を進めるから立ち止まる・引き返すチャンス・プロセスがなくなってしまう。

全てのプロジェクトは企画段階から「損益分岐点・撤退ライン」(と再投資するための「重点投資ライン」)をビルトインする・既成事実化(≒共通認識化)しておくことで機械的・強制的に立ち止まる・引き返すことができるようになるはずだ。
このような損益分岐点・撤退ラインを最初に定めることは、猛烈な抵抗に遭うこと必至であるが、こうした部分で手を抜くから将来的にもっと痛い目に遭う・取り返しのつかない事態に陥るので、悪魔に負けて「楽をしてはいけない」。

誰かを悪者にすればいい

「市民ワークショップを丁寧に開催して市民の夢をなんとか叶えようとしたのですが」「有識者委員会で各分野の専門家の知見を集めて精査してきたのですが」「コンサルに業務委託を行い精緻な要求水準書を作成したのですが」・・・
結局、そこに「一人称の自分」はいない。

旧来型行政の思考回路・行動原理による立法事実とは「うまくいかなかったときの言い訳」でしかなく、そのプロセスはアリバイづくりでしかない。
しかも、こうした場面に陥るとそれまで一切建設的な意見を発することもなく代案を示してこなかったどころか、脇から眺めていただけの傍観者(税金泥棒)でしかなかった幹部職が堰を切ったように「ほら見ろ、俺は最初からうまくいかないと思ってたんだ」と異口同音に連呼し責任逃れに走る。(←これは自分も公務員時代に何度も経験しているorz)
恐ろしいことに、行政の内部では立場・権限も(給料も)低いなかで奔走してきた担当者を見捨てる・切り捨てることが日常茶飯事のあるある案件となっている。

ただ、このように「誰か」に責任を押し付けたところで何も好転することはないし、そこまで頑張ってきて経験知を蓄積してきた担当者をつまらない保身のために見捨てる・切り捨てることで、自らリアクションすら困難にしてしまう負のスパイラルに陥る。

こうした場面に陥るリスクを軽減していくためにも、「自分たち(必要十分なメンバー)でビジョン・コンテンツ」を徹底的に突き詰めていくことが重要であり、その検討プロセスがリアリティのあるものだったら、自ずとどこかで立ち止まる・引き返すチャンスが生まれるはずだ。(自分がサポートしてきたプロジェクトでは必ず「ビジョンの作成」作業が最も行き詰まり、多くの時間を要する。逆に言えばここをきちんと組み立てることができれば、「立ち戻る原点」にもなるので軸がブレることがなくなる。)

割り切る

非合理的な社会

行政は非合理的な社会なので、100%の理想的な答えは得られない。そのことを頭に入れて軸(≒ビジョン)と譲れないラインだけは死守しつつ、関係者とのバーター取引を行ったり、泣く泣くパーツを削ぎ落としたりしながら形にしていくことが現実的なラインになる。
100%の理想形に固執していてゼロ回答になってしまうことは、まちから見たら何もしていないことと同義である。逆に言えば多少ブサイクになったとしても、まちに良いインパクトを与えることができれば、そこを起点としてリカバー・育てていける可能性を残すことができる。

長の補助機関

行政の職員は地方自治法上、長の補助機関であり、職員のクライアントは首長である。首長に誤った経営判断をさせないこと、まちに向き合ってもらいまちの経営者として存分に力を発揮していただくことが職員の役割である。
つまり、首長にとって「役にたつ」職員、(役職だけではなく信頼関係も含めて)首長を動かすことができるポジションに自分がいることが重要である。その首長が何を求めているのかを正確に把握しながら、媚びるのではなく補助機関として結果を出しながら信頼を得ていく、そのなかで自分のやりたいプロジェクトも首長を通じて具現化していくことが重要である。(決して媚びてYesマンになることとイコールではない)
同時に、今回のテーマのように「立ち止まる・引き返す」ことも執行権の行使の一つなので、そうしたことが政治的な致命傷にならないようバックアップ措置を講じたり、別のプロジェクトでそれ以上のポイントを稼げるようにしていくのも補助機関としての現実的な役割である。

せめて爪痕を

全てのプロジェクトが理想的・理論的・合理的に「引き返す・立ち戻る」ことができれば誰も苦労しない。中には政治的な理由等でステプロジェクトとしてやらなければいけない・どうしても止まらないものも存在する。
こうした場面では最後までどこかに道がないか徹底的に探る・首長ともデータ等を用いて調整を図る必要があるが、最終的には職員は政治家ではないので「政治的判断」になった瞬間からは、いかに被害を最小限に抑えるか、少なくともどこかに爪痕を残せるかに切り替えることが現実的な選択肢になる。

経験知に変える

このように「割り切る」ことは本意ではないし、それによってまちにポジティブな影響を与えることもない。ただ、だからと言って嘆いていたり諦めてしまうと前述のように次々と魔の手が襲いかかり、悪魔の囁きに翻弄され、まちが瞬く間に衰退していく(≒「喰われる自治体」として悲惨な道を辿ることになる)。
大切なのはこうした不本意な事態がなぜ起きてしまったのか、どこに・誰に・何に問題があったのかを正確に分析してレビューすること(≒「経験知」に落とし込み、それを組織としての形式知として共有していくこと)である。
前述の青木島遊園地の唯一の希望は、(真剣に議論して真実を明らかにしていくことと長野市が本気で変わる覚悟・決断・行動をする前提だが、)検証委員会が設置されたことであろう。これが形式的なものに終わったりするようでは、長野市は二度と「子育て支援」などと言えないまちになってしまう。

自分たちらしいプロジェクトを

世の中を知る

「立ち止まる・引き返す」ことを日常的に行えるようにすることは、現代から今後の自治体経営にとって不可避のテーマである。思いっきりパラダイムシフトすることが求められる。

これまでの地域の有力者・既得権益の団体から推された首長(+やらされ感だけの職員)とごく僅かな地域・団体の票をベースにした議員の集合体の議会による「オママゴト二限代表制」を引きずっているようではパラダイムシフトなど発生しようもない。
自分たちの行政範囲に留まり、井の中の蛙状態で世界が見えないようでは「変わる」ことも難しい。残念ながら、数多くのセミナー・研修会等に出講させていただき、いろんな自治体関係者の話をダイレクトに聞くと「目から鱗でした」「いろんな事例があるんですね」等の感想をいただく。もはや当たり前になっていると思っていた包括施設管理業務・サウンディング市場調査等ですら「はじめて聞きました」「うちではまだ時間がかかりそうです」と言った意見を聞く。

ダメな行政の典型例・共通項は「財政が厳しいから(・配信等で学べるから)」と旅費・研修費を表面的に全面的にカットしてしまうことである。更に悪い自治体では謎の研修屋さんに多額の費用を払い丸投げ委託して「マナー研修」などのオママゴトでやってる感を出している。(しかも「うちのまちは視察が多く訪れる自治体なんだから教えてやる側なんだ、待ってればいい」という本人は何もしてこなかったのになぜか超上から目線の部長にも公務員時代には遭遇したorz)

職員も自分の金を使って気になった事例を訪れたり、そこに携わった人たちの話を聞いたりしながら「正しく学ぶ、自分たちが直接見る、聞く」ことを怠けてしまう(業務外でやりたくない・自分の金や時間は使いたくない)ようでは、視野が広くならない。

プロジェクトベースで活躍している行政職員は、「自分から積極的に正しく学ぶ」ことを日常的にやっている。組織としても、こうした職員に正しく学ばせる機会を提供することが重要である。行政にとって最大の経営資源は職員なので、その大切なリソースに投資すること・そこからまちとしてのリターンを得ていくことが自治体経営であることを忘れてはならない。
正しく学び、世の中を知れば「立ち止まる・引き返す」必要があるものが見えてくるはずだし、損益分岐点・撤退ラインの設定も自然とできるようになるはずだ。

自分たちでやる

「自分たちでやる」の実践

これも毎回同じようなことだが、「自分たちでやる」ことによって、どこがそのプロジェクトのポイントなのかはもちろん、何が足りないか、どの要素が整わなかったらヤバいのかも自ずと見えてくる。
コンサルに丸投げ委託して、過去の先行事例を劣化コピーした仕様発注に限りなく近い・分厚い要求水準書では何がポイントなのかが見えてこないし、そもそも自分たちで作っていないので愛着も湧かず「人の匂い」がしてこない。
愛着がないから、自分たちのものになっていないから「立ち止まる・引き返す」ことすらしようとしなくなってしまう。

自ずとオーダーメイド型

無骨でも自分たちなりに構築したプロジェクトは必ずアウトプットまで含めて「人の匂いがする」ものになっていく。そして、自分たちで試行錯誤しながら、自分たちのまちにあったものを模索していくからこそヒューマンスケール/エリアスケールに合致したものになっていくし、地域コンテンツ・地域プレーヤーなどの実態を反映したものになっていく。

自分たちで構築していけば自ずとオーダーメイド型になるだけでなく、「この要素が欠けたら社会性・経済合理性が喪失した」となるポイントも見えてくる。自分たちで作ったものだからこそ、人の匂いがするものだからこそ名残惜しかったり、なんとかしようと最後まで努力もできるが、一方である時点で涙の別れや引き返す決断もできるようになるだろう。

自分の努力不足「では」終わらせない

ここまで長々と述べてきたように「引き返す・立ち戻る」ことは、そのプロジェクトが自分たちなりに構築したものであれば、決して悪いことではない。
うまくいかないとわかっているのに他人事の論理で補助金・交付金・起債に依存して強引に進めてしまい、後戻りができない事態に陥る方が圧倒的にタチが悪い。

先日Disney+で観たBON JOVIのドキュメンタリー(Thank You, Goodnight)で Jon Bon Joviが「(いろんなことがあったけど少なくとも)自分の努力不足『では』Bon Joviを終わらせない」と答えていた。
これはそれぞれのまちにも全く同様に当てはまる。

自分たちの努力不足『では』まちを終わらせてはいけない

お知らせ

2024年度PPP入門講座

来年度に予定する次期入門講座までの間、アーカイブ配信をしています。お申し込みいただいた方にはYouTubeのアドレスをご案内しますので、今からでもお申し込み可能です。

実践!PPP/PFIを成功させる本

2023年11月17日に2冊目の単著「実践!PPP/PFIを成功させる本」が出版されました。「実践に特化した内容・コラム形式・読み切れるボリューム」の書籍となっています。ぜひご購入ください。


PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本

2021年に発売した初の単著。2024年5月現在6刷となっており、多くの方に読んでいただいています。「実践!PPP/PFIを成功させる本」と合わせて読んでいただくとより理解が深まります。

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