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[007]革命を起こせ

はじまった。

はじまって、しまった。

ラストイヤーがはじまってしまった。


アラサーの折り返しを来年に控え、遂にカウントダウンが始まった。

東京駅丸の内北口に置かれていたオリンピック開幕までのカウンターのように、あと○○○日と標されたカウントダウンが、私の頭の中では始まった。


いつもとちょっと違う”一日”

コロナ禍で例年とはやや異なる一日だが、感じること、思うこと、やること、それらはさほど変わらない。むしろ、やる気に満ち溢れていた。
しかし、少し出足をくじかれた春になってしまったのがなにより残念だ。

大学院への進学を決め、さぁやってやるでぃ~!という気持ちは、いまどこに置いたり、あるいは、しまったりすればいいのか、皆目見当がつかない状況であるものの、その一方で、それはとってもとっても幸せな悩みで、今もたくさんの人たちがこのコロナ禍で困り、泣き、悲しみ、そして、心の淵に立たされており、一分一秒の闘いの中で病院の廊下を駆けまわる医療従事者の方がその最前線で未知の敵と闘ってくれている。

決して油断してはいけないが、制限はありながらも比較的安穏とした日々をそれなりに送れているのは、なによりも幸せなことなのだろう。

そう言いつつ、油断なのか、思考停止なのか、慣習なのか、こんな有事においても職場至上主義を貫いてしまう国民性というか、そういったものを中心に据えて動く生活のあり方というか、そういうものは一度変えていかなければならないと、いつにも増して考える次第である。


「パラダイムシフト」と呼ばれる事態が起きる瞬間はなかなか目撃できないが、気づけば、いつの間にか、社会構造が変わっているなんてことは―とくに近年においては―よくあることで、テレワークやら遠隔授業やらといったICT活用をふんだんに盛り込んだ声、意見、政策を現場目線で打ち出し、パラダイムシフトを起こしていくポジションに日本も立っていてほしいものである。

そんな中、驚いたのは、昨日見つけた日経新聞のとある記事の一文だった。

日本では民間団体によるAI教育が他国では類を見ないほど盛ん

昨日に文部科学省HPから発表された補正予算は、新型コロナウイルス感染拡大に対する緊急的な色合いと相まって、ピンチはチャンスと言わんばかりに、これを機にICTの実装を推進していくような内容だった。
一石二鳥、時短的な取り組みだと思う。

教育機関のみならず社会全体的にICTの推進や活用が遅れていたツケが、と足元の状況に触れながら勝手に思っていたが、AI教育分野において日本の民間企業ががんばっているとは知らなかった。
暗くなりがちな折、明るい情報、新しい知識に触れられた。


そうは言っても、震災直後頃には既にテレビ電話ツールとして「スカイプ」が若者の生活に入り込んでいたのに、それを活用するというプラットフォーム(社会全体としての受け皿、とでも言いましょうか)がなかったのだなと、2020年のコロナ禍に直面してはじめて感じたりするのだから、あっちを立てればこっちが立たずで、なかなか推進・実現・実装には至らなかったこともうかがえた。


パラダイムシフトを起こそうとしたやつ

震災前に出会った友人のひとりに、「革命家」と呼ばれたやつがいた。

浪人時代に出会った、まさに”戦友”とでも言おうか、なんせ、突飛で、変人で、ヤバいやつだった。
少なくとも、ファーストインプレッションは強烈だった。

とはいえ、周囲にもファーストインプレッションが強い奴はゴロゴロいたから、少しずつ希釈され麻痺させられていった、と考えた方が正確かもしれない。


結果言えば、その「革命家」はとてつもなくイイやつで、周囲に気を配れる人だった。

そんな、細やかな気遣いができる革命家志望は、「俺は革命を起こすよ」と(半ばキレ気味に)一年間言い続けたが、受験戦争の後、あろうことか家業を継いだ。
「家業を継ぐ」など、むしろ革命とは縁遠く、保守的かつ伝統的なライフスタイルに収まることを嫌っているように見えた性格は、実際、違ったらしかった。

パラダイムシフトを起こそうとするようなやつ、と(勝手に)思っていたのだが、彼の中でパラダイムシフトが起きたからなのか、少なくとも「革命家」でなくなってしまったことにちょっとだけ寂しくなっている自分がいた。
言いようのない不安―とまでは言わないが、それは、このような有事でも、俯瞰的に、冷静観をもって、ちょっとだけ斜め上から、片目をややひそめて、答えを導き出してくれるような存在だったからかもしれない。


それぞれが「革命家」となるとき

「健康で文化的な最低限度の生活を営む」(日本国憲法第25条)というニッポンの金科玉条は、あっさりと無死満塁のピンチを迎え、戦略的に四球を与えて敬遠することも、コースを狙って失投し痛打されることも、許されなくなってしまった。

有事であたふたする政治、ゆとりや遊びをもうけていなかった経済、諮問されるよりも利用される学問………自分も含めてとにかくたくさんのモノや人への無関心が招いた事態のように思えてならない。
コロナウイルスはきっかけやキックオフに過ぎず、前時代から各地で頻発してきた自然災害と同様、被災を他人事としか捉えられなかった(捉えようとしても自分事とは思えなかった)感性や想像力の完敗だと思った。


彼になることはないが、個々人が「革命家」となるときなのかもしれないと、齢をひとつ重ねてふと感じてしまう。

暴動を起こせーとか、政権を倒すーとか、そういった意味での革命を指して言っているわけではないことは自明だが、身のまわりで、小さなコミュニティーで、自分の手の届く範囲で、もう少しだけ他者に関心と寛容さを持ち、少しずつ生きやすい環境を作っていく、これが最後のチャンスと私は感じている。

生活のほとんどが”動いていない”今だからこそ、ゼロ地点を見直す好機になるはずと信じたい。そのために、もっともっと知らないことに触れる一年にしたい。

「この世界はまだ知らないことばかり」というどこかで耳にしたフレーズが思い出された、4月10日だった。



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