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バレなければOKの日本 vs キリストが見ているアメリカ

例えば食品に関して、産地や品質を偽装して販売するようなことはあってはならないのだけれども、実際はどこにでもあることだろう、と私たちは何となく思っていますよね。
 
発覚するかしないかの違いだけで、もし発覚したときには、怒りはするかもしれないが、驚きはそれほどないのではないでしょうか。
 
雇用に関することでは、入社前に説明されていた業務内容と、実際の業務内容がかけ離れているなど。 入社前の説明のほうが 「偽装」 であるわけですが、こういうのもどこにでもある話になってしまっていて、何も驚かないですよね。
 
日本の企業は、法令を遵守しようという意識に乏しいですよ。 もっと正確にいうと、外から見えているところでは法を守っていても、見えないところでは守らなくても平気ですね。
 
労働基準法に違反していようが、条例に違反していようが、全く問題だと思っていない。 「うちはそんな法律を守るほど大きい企業ではない」、「法律を守る余裕がない」 など勝手な言い訳をして、「外の法律は会社に持ち込まない」 のです。 うちにはうちの事情があるのだから会社のルールは自分で作る。 社員が黙っていれば、バレなければ問題ない。
 
私がかつて勤めていた (ブラック)会社でも、サービス残業は当たり前で、休暇も取れない、厚生年金や健康保険を廃止、などやりたい放題でしたよ。 社則は公表されず、何かあっても会社の都合のいいように扱われるだけ。 退職時に有休を消化するなんてことも許されなかった。
 
日本人は、公の場では 「ルールを守る」 ことにヒステリックなほど厳しいですが、それは表の顔なのです。 実際は、表があれば裏がありまくり。
 
それに比べてアメリカだと、基本的に表と裏なんてない。 法律は絶対です。 たとえ大統領だろうが重要人物だろうが、誰にもバレてなかろうが、法律は守るためにあります。 私が実際に感じたところでは、これは根本にキリスト教の影響があるから、なのです。 (念のために申し添えますが、私はクリスチャンではないですし、共和党派でもないです。)
 
イエス・キリストは自分たちすべての父であり、自分たちは彼の子である。 彼に見守られて自分はこの世に生きている。 誰も見てなくても、イエス・キリストが見ているよと。
 
これがなぜ影響力があるかというと、キリスト教では生まれ変わるという概念がなく、たった1回きりの人生だと考えるからです。 死んだらイエスの元で、永遠に過ごすことになる。 その 「永遠」 の時間を良いものにするためには、今の人生で 「正しく」 生きなければならない。
 
誰も見ていなくても、ほかでもないイエスが見ているのだから、悪いことはできない。
 
私が知り合ったアメリカ出身の友人たちは、ほとんど全員、「毎週日曜日に教会に行くなんてことはもうないよ!」 と言います。 だけれども、両親は教会世代であったりするし、社会全体の根底にあるものは十分にキリスト教文化なのです。
 
例えば、大統領が就任の宣誓をするときには、聖書に片手を置いて誓います。
 
結婚式では、神父や牧師などの前で二人が誓うことでパートナーとなり、結婚許可証にサインをもらうことができます。
 
宗教というのは、文化に深く根付いていて、そうとは気づかないぐらいですよね。 私は日本人なので、アメリカではキリスト教の影響を感じますし、反対にアメリカから見て初めて、日本での仏教や神道の影響を感じることができました。
 
先ほど生まれ変わりの話を出しましたけれども、日本では、「自分の前世はきっと~」 なんて普通に話しますよね。 前世とか来世とか、まったく違和感なく口にできますが、こういう輪廻転生の考え方って、とても仏教的なのですね。
 
ニューヨークで “My previous life” とか “Next life” なんて言ったら、ものすごくオカルトの世界みたいに受け取られるようでした。 全く理解できないみたいです。
 
「いただきます」 と 「ごちそうさまでした」 も仏教ですよね。 合掌しますしね。 アメリカの、とっても敬虔なクリスチャンだったら、食事の前にお祈りするのかもしれませんが、今のニューヨークの日常でそんなことしてる人は見た事ないです。 何も言わずにいきなり食べ始めます。
 
また、日本と比べてアメリカで印象的に感じられることは、善悪の判断に厳しく、合理的なことがあると思います。
 
キリスト教で、罪に対しては愛をもって罰を与えることの影響なのか、犯罪に対しては厳しく適切な刑罰を与えます。 犯罪者が未成年の場合でも、凶悪な犯罪の場合は 「大人として扱」 い、氏名を公表することがあります。 
 
アメリカで感じるのは、罰とはその人にとって 「悔い改め成長する機会が与えられる」 ということであり、救いでもあるということです。 日本で、罰するということの意味が 「懲罰」 であって 「社会から抹殺する」 ということであるのとは対照的です。
 
アメリカでは、司法(裁判所) が正義であるという信頼があります。 司法に問題がないわけではないですが、日本の裁判所よりずっと中立です。 日本では、裁判の判決はどこか政治の影響を感じたり、権力に対する忖度の存在を感じたりしないでしょうか。 実感として、日本では弱いものがどこまでも虐げられ、司法からも守られず、泣き寝入りするしかない状況であると思いませんでしょうか。
 
司法によって人を 「正しく裁く」 のが正義ですよね。 正しく裁き、正義を遂行するのは、強さがないとできないことです。 このような強さは、父性的であると言えます。
 
日本にはこのような強さはない。 「相手が誰であろうと正しく裁く」、という正義はありません。
 
日本人のメンタリティというのは、
 
「悪気はなかったんだから」
 
「謝ったんだからもう良いではないか」
 
というものですよ。 これでは、何が問題なのか何も明らかになっていません。 悪気があろうがなかろうが、悪いものは悪いのです。 行動には責任があり、検証されなければならない。 にもかかわらず何が悪かったのかを追求しない。 謝りさえすればそれでよくて、何に謝っているのかわからなくても問題ではない。
 
これって、母性的なふるまいです。 日本の社会は、文化的にはとっても母性的な社会なのです。 正義がない。 厳しさがない。
 
企業や政治家などのスキャンダルが発覚した際も、「記者会見などで謝罪すれば終わり」 になっていますよね。 どんなに重大な問題でも、そのうちになぁなぁになって、忘れられてしまい、最後まで責任を問われることがほとんどない。
 
事故が起きても、「今後はチェック体制を強化し、再発防止に努めます」 なんてその場限りの、型通りのセリフだけで日本人は納得するようだけど、こんな中身のないセリフで終わらせてはダメです。 「具体的に何をどうやって」 対策していくのかを明らかにしないと、意味がない。
 
おそらく日本人というのは、「こいつがこれだけ謝罪して、社会的に制裁を受けたから(十分に恥をかいたから) 満足した、だからもういい」 という心理でいるのですよ。 だから 「謝った」 ということ以外には興味がないのですね。
 
こういうことを正面から追求していけないところが、日本の弱さであり、知性の低下の表れではないでしょうか。
 
犯罪についても、諸外国に比べて日本の刑罰が異常に軽いことは事実です。 特に、性犯罪についてはひどいですね。

10か国調査研究 性犯罪に対する処罰 世界ではどうなっているの? ~誰もが踏みにじられない社会のために~
http://hrn.or.jp/wpHN/wp-content/uploads/2019/02/d81f8c13c876e462bd4c4123941105a0.pdf
  

そして、先にも触れましたが、いじめや、教師による体罰、パワハラなどでも、まず隠蔽されるのが常で、加害者に対する処罰はないに等しいです。 たまたま世に出て報道された場合に 「仕方なく」 対応されるぐらいで、世に出なければ徹底的に隠蔽されますね。
 
たとえ被害者が自殺するようなことがあっても、死人に口なし。
 
被害者の尊厳は守られないのに、加害者のほうが守られる。
 
加害者に対して正しい罰がないので、彼ら彼女らが反省し成長する機会もないですね。 今の日本は、社会を正しい方向に導く正義がない。 良くしていこうという強さもない。
 
アメリカで見られるような、罪は罪として裁くという強さが、日本に欠けていることは明らかです。 誰にもバレなければいいのではない。 悪いものは悪いと認める正義が、社会には必要なのです。

社会の成り立ちは宗教のみによるものではないし、キリスト教が良くて仏教が悪いなんてことでもないですよね。 でも、罪を見ないで人を見て許してしまう、女性的な社会が日本なのだ、という自覚ぐらいはあってもいいのではないでしょうか。

 

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