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今宵は三日月

 昨日はあんなにいい日だったのに、今日はその反動か鬱々とした気持ちが私の中を満たしていた。今日も外は晴れていた。でも出ていく気にはなれず、なんとか服を着替えた。何をしようにも気力が湧かなかった。恋人との電話の約束を億劫に思った。LINEの返信を億劫に思った。本を読もうと開いてみても、文字の上をただ目が滑るだけで内容が入ってこなかった。用もないのにスマホを開いては閉じ、SNSのタイムラインを眺めてはそればかり繰り返す自分に嫌気がさしていた。

 本を読んでいたかったがどうにも進まないので、映画を見ることにした。数ある作品の中から選んだのは朝井リョウ原作の『何者』である。内定獲得にもがき、保身し、苦しむ就活生たちの話だ。今の自分にはあまりにタイムリーな内容であるため、見るのは少し怖かったがさっそく再生させた。


 しっかり見入ってしまった。最後まで目が離せなかった。どの人物も重なる思い、考え方があって途中何度も苦しくなった。演出にも目を瞠るものがあり、文章だけの原作では一体どう描かれていたのかが気になる。見た時期としてはベストなタイミングだった。私もこれから苦しむことになるだろう主人公たちが直面していく場面に滅入りそうになったが、エンドロールが最後に流れ出したとき、鼻の奥がジンと熱くなり、こみ上げてくるものがあった。この作品は結局我々就活生、つまり自ら自分を売り出して競争し、その競争に勝って、選んでもらわなければならない人々に向けられたエールである。

 これから、私達は自分がどんな人間でどんな価値観を持ちどんなことをしてきてどんな風に役に立つのかを、限られた時間、限られた言葉、限られた手段によって伝えなければならない。優れた個性、能力を持つ誰かにならなければならない。そうして説明される「何者」かに自分がならないといけない。そう思っていたが『何者』というこの作品はまるで、そうではないんだよ、あなたはあなたでいいんだよ、と包み込んでくれるようだった。だからエンドロールまでみたとき、「ああそうか私は私のままで良いんだ。私は私のまま戦うしかないんだ、頑張るしかないんだ」と涙がこぼれたのである。


 おそらく多くの就活生が悩む「自分は何者であるか」の答えは、自分の過去にしかない。正確には、過去の行いから説明するしかない。そのため、大したことをしてこなかった多くの就活生は本作中の登場人物のように様々な立場をとりはじめる。
 肩書きを並べ虚勢をはる者、素直な自分で真っ向勝負する者、自分は他とは違うと棚に上げて他人の有様をあざ笑う者。
 就活で企業側は、その人が自分にどう折合をつけて取組んできたかを見ている。そして、この就活というハードルに直面して、どう取り組んでいるのかを見ている。(https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B06Y5NSQRH/ref=atv_hm_hom_1_c_NUlI6E_2_2 2021年5月14日閲覧)

 これは『何者』に対する上位レビューからの引用である。この言葉にもまた、背中を押された。私は私にどう折り合いをつけていくか。大それた人間にはなれなくても、真剣に自分と向き合うことができれば道は開けるかもしれない。


 これを書いている途中で、恋人からLINEが来た。

「今晴れてる?いい月だよ」

 自分が綺麗だと思ったものを共有しようとしてくれる彼の気持ちがとても嬉しかった。私の部屋からはどうしても見えなかったので、部屋を出て見えそうな場所を探した。玄関に続く渡り廊下の途中にある窓から見えた。随分と細い三日月が、まだ日が暮れて間もない紺色の空に小さく浮かんでいた。久々に月を見たことに気づいた。満月なのかと思ったけど綺麗な三日月だね、と返した。一日というのは、こうした些細なことで随分と印象が変わるものである。図らずもあっという間にいい気分で満たされてしまった。

 憂鬱かと思われた今日は充実した一日に変わった。晩ごはんを食べることにしよう。急いで風呂も済ませなければ。約束の時間は近い。

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