感謝と葛藤

治療をしてくれる医師には感謝している。当然、看護師にも感謝している。日々接する事務の方々にも感謝している。


それとは全く別の感情として、病気や今後に対しての葛藤はある。


葛藤によって感謝が薄くなるわけではない。まぁ、未来を少しでも改善するために自分にできることを最大限やりたいから、感謝を表現するだけではなく、自分にできることは最大限妥協せずに行いたいのかもしれない。


ただ、座って笑顔で全て他者に丸投げして、ゆったり寝そべって起きたこと、やってもらったこと、可能なことにだけ感謝して生きられたら、きっともっと楽で楽しくて、穏やかなのだろう。


けど、「私は努力せず、いつイッテもいいのよ〜。全てお任せします。」って笑顔で座禅くんで目を背けた態度では居れないんだよなぁ。孫や曾孫もいて、人生満喫し終わって満足ってほどではないし…… 自分にも自分に対する責任があるし、最善を尽くす責任も義務もある。そもそも、どうでもいいなんて思えない。そんな態度や行動で、もしアウトカムがベストじゃなかったら、自分を許せない。


慎重に橋を渡ってでも1秒でも長く、そしてほんの少しでも体調が改善し、安定した状態を求めたい。そうせずにはいられない。


自分にできることを実行することで得られる安心感もある。


PTSD的要素や自分でも気が付かない命の時間に対する想いや危機感が背景に潜んでいると、生涯健康で安心安全な日々しか想像できない心境よりも若干短気になることはあるかもしれない。そうならば、これは気をつけなければいけないだろう。


そもそも、何も考えず、気が付かず、「私なんていつでも◯んで構わないのよ〜」なんて穏やかに笑っているのが幸せなのだろうか?

本当はどうだろうねぇ〜。

一回、このように言った待合室でたまたま話をした患者さんに、

「え? そうなんですか?」と驚きながら相づちを打ち、先ずは背景や発言の意図を傾聴しようとしたら、ものすごく不服そうでご立腹されたような表情をされた。

こういうことを言うのも、否定してもらいたい謙遜ってやつなのかもしれない。(とはいえ、治らないから、それに納得したい心境やDNARを検討しているのか、治療が難しいけど頑張りたいと思っているか聞き手は分からない。無闇な「治してください」は逆に辛い時もある。嫌なことを否定してもらうためだけの発言はせず、本音で欲しいことも自慢も言えばいいのに……と思う時もある。)


何を言うかで、腹の中は分からないのかもしれない。平穏な闘病や共病ってなんだろうね。


話を戻そう。


私の治療に関わってくれている人々が皆最善を目指して全力を投入してくれていることは良く分かる。


それに感謝している。


感謝を通り越して、尊敬する。


その気持ちとは別に、今後どうなるか分からないけれども、どうなろうとも、絶対に後悔せず、そして限りなく最善のアウトカムが実現し続ける可能性を追い求めることを追求してしまう。


妥協しないことで、命が伸びるなら、そしてそれが誰にも迷惑をかけないならば……


こう考えて、私自身もベストを尽くし続けようとする性格なんだろうな。


だからといって、感謝はこれっぽっちも薄らいだりはしない。むしろ、強くなる。


もっとずっと若くて無知で希望しか知らない無鉄砲だった頃の自分にしか伝えられない、純粋で無垢な感謝があった。


当時よりも、もう少し自分という器が社会の色々で混濁した今、私はどうやって感謝を伝えれば良いのだろうか。


迷いながら、色々考えて、それで本心が通じると願うしかないよね。


今を大切に生きよう!

ぜひサポートよろしくお願いします。 ・治療費 ・学費 等 に使用し、より良い未来の構築に全力で取り組みます。