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【抽象】「思考力がない」と嘆く人に。研究者で小説家の森博嗣が語る「客観的に考える」ために大事なこと:『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

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「具体的な刺激」が溢れる世の中で、いかにして「抽象的な思考」を育てていけばいいのか

著者の森博嗣は、まえがきでこんな風に書いています。

まえがきからして、いきなり抽象的な話になっている。こういう話を聞いたり、このような文章を読んだりすると、多くの人は眠くなってしまうだろう。それは日常、具体的な刺激ばかりに囲まれているから、抽象性を求める感覚が退化している証拠だと思って欲しい。

著者は本書の中で何度も、「今の文章は抽象的で分かりにくいかもしれない」みたいなことを書きます。私は特に分かりにくさを感じませんでしたが、InstagramやTik Tokなど「目で見て理解できる具体的なもの」にばかり触れている人には、「難しい」「分からない」「イメージ」できないという感覚になってしまうかもしれません。

つまり本書はまさに、「この本は分かりにくいかも/自分には合わないかも」と感じた人こそ読むべき本だと言っていいでしょう。そのような意識で、この記事も読んでいただけるといいかもしれません。

本書を読んでも「客観的で抽象的な思考術」は会得できるわけではない

国公立大学で長く働き、学生たちとも直接関わっていた著者は、本書執筆時点における「過去10年で最も多い質問」として、

ものごとを客観的に考えるにはどうしたらよいでしょうか?

を挙げています。そして、それに対する著者の基本スタンスが「抽象的に物事を捉え考えること」だというわけです。それは、「具体的で論理的な思考」とはまったく異なるものだと考えていいでしょう。

「論理的思考」に関する本なら、世の中に数多く存在します。読んだことがあるという方もいるかもしれません。「論理的に考えること」の場合は、何をどのように行っているのかを捉えやすいし、だから「テクニック」として他人に伝えることも可能です。完全に体得できるかどうかは人それぞれの能力によるわけですが、少なくとも「理解し、実践を試みることができる」という意味で、「論理的思考」のスタートラインに立つことはそう難しいことではないと言っていいでしょう。

しかし、本書で著者が語る「客観的で抽象的な思考術」は、まったくそんなものではありません。

ただ断っておきたい。この本を読めば、その「客観的で抽象的な思考術」なるものが会得できるのか、というとその保証はない。基本的に、ノウハウを教えれば、すぐにできるようになる、というものではないからだ。
それでも、少なくとも「客観的になろう」「抽象的に考えよう」と望んでいる人が本書を読むだろうし、また、真剣にそれを望んでいるのなら、必ずその方向へ近づくことになるはずだ。その近づき方を多少早める効果が、この本にはあるかもしれない。そう願っているし、多少でもそれを信じなければ、やはり書けないと思う。

本書を読み終わっても、「具体的に何をすればいいのか」は全然分かりません。それは、著者が意図的に「具体例」を排しているからです。具体的な話をすればするほど、「具体的で論理的な思考」に引っ張られてしまいます。それを避けるためには、なるべく「具体例」を入れず、説明そのものも抽象的にしていくしかないというわけです。

そんなわけで、「具体的に何をすればいいのか」は全然見えてきません。そういう意味で本書は、一般的な思考術の本とはまったく異なる本と言えるでしょう。この点を理解せずに読むと、「思ってたのと違う」と感じられてしまうかもしれません。

本書では、「目的地」と「目的地までのなんとなく道筋」は提示してくれると言っていいでしょう。ただ、「スタート地点」の提示だけはしてくれないのです。既にスタートラインに立っている人は、本書を読むことで、どの方向にどんな風に歩き出せばいいかなんとなく理解できるだろうと思います。ただ、どこがスタートラインなのかさえまだ分かっていない人には、本書はそのままでは「羅針盤」には成り得ないというわけです。

恐らく、「スタート地点に立つこと」が最も難しいと言えるでしょう。

客観的、抽象的な考えができない人というのは、つまり「そうは考えたくない」という人なのである。あるいは、感情的に「そういうふうに考えるのは嫌いだ」という気持ちを持っている場合もある。人のことをあれこれ考えるのはいけないこと、はしたないことだ、と思っている人もいるかもしれない。

もしあなたが、意識的にあるいは無意識的にこのように感じているとしたら、「『客観的、抽象的な思考』の『スタート地点』に立つこと」は相当難しいと言っていいでしょう。ある意味、自分自身で「スタート地点に立つこと」を禁じているのですから。あるいは、日常生活の中で不自由を感じていない、つまり「具体的、論理的な思考」で十分だと感じている人もまた、「スタート地点に立つこと」が難しいと言えるでしょう。

本書は、「スタート地点に立った後」にこそその力を発揮する本だとまず理解して下さい。そして、「スタート地点に立つこと」こそが最大の難関であるという点も押さえておくといいと思います。

さて、さらに森博嗣は、「目的地」についてもこんな風に書いています。

単に、それだけのことである。これも、最初に断っておかなければならない。つまり、客観的で抽象的な思考、あるいはそれらを伴う理性的な行動ができても、せいぜい、もうちょっと有利になるだけの話なのだ。是が非でも、というものではない。それができるからといって、人間として偉くなれるわけではない。
ただ、そういう考え方が、あるときは貴方を救う、と僕は信じている。

私が考える本書の「目的地」も紹介しておきましょう。

私はよく「解像度」という言葉を使います。そして、「客観的、抽象的な思考」によって、「世の中を、より高い解像度で見ることができる」と考えているのです。裸眼では見えないけれど、望遠鏡でなら月の表面が見え、顕微鏡でなら物質の分子構造を確認することができるでしょう。このように、「客観的、抽象的な思考」というのは、望遠鏡や顕微鏡といった道具を手に入れるのと同じような効用があると考えているわけです。

まったく同じ状況・光景を目にしていても、「客観的、抽象的な思考」を持っているかどうかで、その状況・光景を捉える際の解像度が変わります。当然、そこから得られる情報量もまったく違ってくるでしょう。そういう風に世界を捉えられていると私は思っていますし、今よりももっと高い解像度で世界のことを知りたいとも感じています。

そんなことに興味はない、という方は、頑張ってまで「客観的、抽象的な思考」を手に入れる必要はないかもしれません。

森博嗣のポリシーは「なにものにも拘らないこと」

それでは、森博嗣がどんなことを書いているのかに触れていこうと思いますが、早速「思考」とは関係なさそうな話が展開されます。森博嗣はまず、

唯一のポリシィは、なにものにも拘らないこと

という自身のスタンスの話から始めていくのです。私も森博嗣ほどではありませんが、「なにものにも拘らないこと」をポリシーにしようと意識しているので、とても理解できます。

森博嗣はさらにこんな風に話を進めるのです。

さて、どうして「なにものにも拘らない」ようにしようと思ったのかといえば、それは、自分の周りの人たちを見ていて、「ああ、この人は囚われているな」と感じることがあまりにも多かったからだ。ほとんど全員が、囚われているというか、支配されているのである。その囚われているものというのは、常識だったり、職場の空気だったり、前例だったり、あるいは、命令、言葉、体裁、人の目、立場、自分らしさ、見栄、約束、正義感、責任感、などなど、挙げていくときりがない。

私の場合は、「自分がいろんなものに囚われている」と意識できるようになり、そこからどうやって逃れればいいのかを試行錯誤することで「客観的、抽象的な思考」にたどり着いたという感じだと思います。

子どもの頃は何故か、「優等生でいなければならない」という感覚に支配されていました。長男だったし、勉強も出来たし、妹と弟が親をイライラさせているのをよく見ていたし、そういうことが相まって「自分はちゃんとしなければいけない」みたいに考えていたのだと思います。

ただ、20代の前半に自分の中で限界がやってきました。この「透明な檻」の中にいることはもう出来ない、と感じたのです。しかし、そこからどうやって出ればいいかも、出た後でどんな風に振る舞っていけばいいかも全然分かりませんでした。今までは、とりあえず「優等生」という枠組みの中にいれば、苦しかったけれど成立はしていました。しかし今度は、「ある意味で長い間自分自身を規定していた『優等生』という枠組みを取っ払ってどう生きるべきか」という問題に直面せざるを得なくなったわけです。

私の場合は、そういう必然性があったので、否応なしに「客観的、抽象的な思考」に足を踏み入れざるを得なかったと言えるでしょう。「優等生」という枠組みを外す過程で、自分が他にどんなものに囚われているのかも見えてくるようになり、「捨てても問題ない」「無い方がむしろラク」などの判断をして断捨離していきました。そんな風にして、社会の中でそこそこ折り合いをつけながら、自分にとって不要な枠組みを取り払っていくみたいなことをしていったのです。

さて、森博嗣はどうして「拘り」「囚われている」という話をするのでしょうか。それは、多くの人が抱える問題のほとんどがこの点に関係すると考えているからです。

そんな限られた時間の中で、自分に押し寄せてくる雑多な不自由を、よく観察してみよう。本当に必要なものだろうか、と考えてみよう。ついつい流されているものがないだろうか。ただ単に、「当たり前だから」「みんながしていることだから」「やらないと気が引けるから」「ずっと続けてきたことだから」「断るのもなんだから」という弱い理由しかないものに縛られているかもしれない。

自分を取り巻く様々な「枠組み」をなんとか無理やり外した私も、そういう自分になってから世の中の色んな「悩み」に触れてみると、「自分の意思で檻に囚われている」という風に見えることが多くあります。かつての自分がそうだったからこそ余計に、それがよく分かるのでしょう。「この檻から出られない」と多くの人が悩んでいるのですが、実はその檻に自ら進んで入っているにすぎません。「出られない」のではなく「出たくない」だけなのですが、なかなかそのような発想を持てずにいます。

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