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【悲哀】2度の東京オリンピックに翻弄された都営アパートから「公共の利益」と「個人の権利」を考える:映画『東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート』

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公共の利益」と「個人の権利」のバランスはどう取るべきか?当事者であるか否かで変わりうる難しい判断

本でも映画でも、普段、「面白いかどうか」の確信を持たずに触れるようにしている。当然、あらかじめレビューなど読まないし、評判を調べもしない。「面白いかどうか分からないが、なんとなく気になる」という状態で様々なモノに接するようにしているのだ。

ただやはり、何となくの期待感を抱いてしまう作品もあるわけだが、この『東京オリンピック2017 都営霞ケ丘アパート』は、その中でも事前の期待値が全然高くない作品だった。チラシの情報では、ほぼどんな映画なのか想像できないし、「期待のしようもなかった」という言い方が正しいだろうか。

しかし、思っている以上に面白くて驚いた。扱っているテーマや、それを切り取るやり方などが、よくあるドキュメンタリー映画のものとは違っていて、非常に興味深い作品だったのだ。しかしその一方で、それ故に面白さを伝えにくい作品でもあると感じた。実際、例えば誰かにこの映画の面白さを口頭で伝えるとして、「観たい」と思ってもらえるようなポイントをパパッと挙げることはかなり難しい。

この記事では、長い文章でこの作品の面白さを伝えるつもりだ。しかしそれでも、ピンとは来ないかもしれない。なかなか言葉では伝えにくい魅力がある作品なので、私の記事から面白さを捉えられなかったとしても、機会があれば観てほしい作品だ。

ちなみに、あらかじめ宣言しておくが、この記事では「矛盾した主張」を展開する。そして、まさにその「矛盾」にこそ、この映画の核が存在すると感じるのだ。

ちなみに、この映画のテーマの1つは「公共の利益」だが、以前、森美術館で行われている「Chim↑Pom展」に関しても「公共」をテーマに記事を書いたことがある。併せて読んでもらえると面白いかもしれない。

映画全体の設定

この映画では何が映し出されるのかについてまずはざっと整理しておこう。ただ、映画にはナレーションが一切存在せず、補助的な説明を果たす字幕も最小限しかない。映画を観ているだけでは、断片的にしか情報を捉えられないので、適宜公式HPの記述を参考にしながら書いていくことにする。

中心になるのは、映画のタイトルにもある「都営霞ケ丘アパート」とそこに住む住民たちだ。

この「都営霞ケ丘アパート」は、1964年の東京オリンピックでの開発の一環として建設された。そしてだからこそ古くから住む住民が多く、必然的に高齢者の割合が非常に高い。映し出されるのは、ほぼお年寄りの住民ばかりである。

そして「都営霞ケ丘アパート」は、東京オリンピック2020の開催を理由に取り壊しが決定、住民が立ち退きを迫られることとなった。「都営」とあるように東京都が運営するアパートであり、2012年7月に都から「移転のお願い」が届いている。そして住民たちは、要望書をまとめてここに住み続けたい意思を伝えた。この映画は、そんなやり取りが行われていた2014年から2017年までの、「都営霞ケ丘アパート」とその住民たちの記録である。

映画には、「都に要望書を提出し、その後記者会見を行う様子」や、「1964年の東京オリンピック当時を回想する映像」なども含まれるのだが、基本的には「『都営霞ケ丘アパート』の住民たちの日常」が映し出される映画だと言っていい。つまり、「お年寄りの日常生活」や「移転騒動への戸惑い」などである。

そんな作品だからこそ、何が面白いのかを伝えることがとても難しい。

ちなみにこの映画、東京オリンピック2020の開会式が行われた2021年7月23日に緊急先行上映され、8月13日から全国上映が開始された。公開されたタイミングも含めて、様々な問題を提起する作品だと言っていいだろう。

オリンピックは「公共の利益」なのか?

さてここからは、映画を観ながら考えたことについてあれこれ書いていくことにする。

まずは、「公共の利益」と「個人の権利」の関係についての基本的なスタンスについて説明しておきたい。私は、

「『公共の利益』のために『個人の権利』が制約される状況」は、基本的に仕方ないものだ

と考えている。これが私のベースとなるスタンスだ。

それがなんであれ、「構成員すべてが賛同する意見・提案・価値観」など世の中には存在しないと私は考えている。必ず、誰かは犠牲になるし、誰かは反対するし、誰かは拒絶するはずだ。もちろん、状況によっては「全会一致で決めなければならないこと」もあるだろう。よほど重大な問題であれば、「全員の納得が無ければ前には進まない」という判断もあり得る。しかし、すべてをそのようなやり方で動かしていくことは不可能だし、だからこそ「多数決で物事を決める。そのせいで少数派が何らかの不利益を被ることは仕方ない」という考えをベースにするしかないと思っている。

もちろん、その不利益が「回復不能」なものであるなら、「『公共の利益』を優先する」という判断は止める必要があるだろう。何を以って「回復不能」と考えるかは人それぞれだろうが、やはり「生命が脅かされる」「財産がすべて失われる」みたいな状況は、「何らかの不利益」という言葉で片付けられるものではないし、考慮すべきだと思う。しかし、主観的にはともかく、客観的に見て「何らかの手段で代替可能だ」と考えうる事柄については、そのような不利益を被る人が出てきてしまうことは仕方ないと私は考えている。

これが私にとっての「公共」の捉え方だ。つまり、「個人の不利益を多少許容してでも、全体としてのプラスを目指す」とという考えである。人それぞれ「公共」に対する価値観は違うと思うが、私の意見はこんな風にまとめられる。

さて、このように基本となる立ち位置を確認した後で考えるべきは、「では、『オリンピック』は『公共の利益』と言えるのか?」だろう。

私がこの映画を観たのは、全国公開の翌日の2021年8月14日であり、まさに東京オリンピック2020が閉幕した直後だ。私はスポーツにはまったく関心がなく、東京でやろうがどこでやろうがオリンピックに興味はないが、日本勢が過去最高のメダルを獲得したこともあり、全体的には大いに盛り上がったと言っていいだろう。しかし一方で、延期や感染対策の強化などのために費用が膨らみ、また、オリンピックによって得られるはずの経済効果も期待できなかった。金銭面で言えば大いにマイナスだと言っていいだろう。また、因果関係を証明することは困難ではあるが、オリンピックの開催と同時期にコロナウイルスの感染も拡大し、「オリンピックのせい」と感じてしまう気分もあるだろうと思う。

このように、この映画が公開された時点での状況から判断した場合、「東京オリンピック2020」が「公共の利益」と言えるのかについての判断はなかなか難しくなる。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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