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【実話】ソ連の衝撃の事実を隠蔽する記者と暴く記者。映画『赤い闇』が描くジャーナリズムの役割と実態

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ソ連の「恐るべき秘密」を暴き出した名もなき記者の実話を基にした映画『赤い闇』は、決して他人事ではない

映画『赤い闇』は、実話を基にしている。スターリン率いるソ連が、外国メディアを懐柔してまで隠し通したかった「とんでもない秘密」を、単身乗り込んだ無名のジャーナリストが暴き出すという物語だ。映画の主人公であるジョーンズは、ピュリッツァー賞を受賞した世界的に有名な記者を敵に回してソ連の闇を暴き出す。それは想像するだに困難極まるミッションだろう。

私たちは、メディアを通じて世界を知る。しかし、そのメディア自身が歪みや不正を内包していれば、私たちは世界について何も知ることができなくなってしまう。その怖さは、現代を生きる私たちにも共通するものだ。

メディアはどうあるべきか、そして私たちはメディアとどう関わるべきか。この点について深く考えさせる物語である。

「間違ったことをして評価される」より、「正しいことをして非難される」方がずっとマシだと思う

早速映画の内容とは関係のない話から始めるが、私はどこか外国で市民によるデモが起こる度に、その制圧を行う警察官について考えてしまう。彼らは、一体どんな風に感じているのだろう、と。

アメリカでのBLMの運動や、香港での民主化デモなど、「明らかにデモ側の主張に多数の人間が賛同し、世界の注目を集めている」と感じる状況が存在する。一方警察官は、権力側に立つ者としてそのデモを鎮圧しなければならない。恐らく彼らの中にも、デモ隊に賛同の気持ちを抱く者もいると思う。しかし彼らは、それがなのでで、デモを抑え込もうとする。

もちろん、生活するのに必要なお金を稼ぐための仕事は大事だ。別に、デモを制圧しようとする警察官を非難したいわけではない。ただ、「結局のところ彼らは、『間違ったことをして評価されること』を選んだのではないか」といつも感じてしまう。デモ隊に賛同する気持ちを抱いているとしても、彼らはそれを抑え込み、「デモ隊を制圧することは決して正しいことではない」と理解しながら、その行動を取っているのではないか。私は、そんな風に考えながらデモの映像を見ているのである。

私の想像が正しいとして、「そういう生き方はしたくない」と私は思ってしまう。人は様々な理由から、自身の信条とは異なる状況に直面せざるを得なくなってしまうだろう。そしてそういう時に私は、綺麗事に聞こえるかもしれないが、「正しいことをして非難される」ような選択の方がマシだと考えるはずだと思っている。

映画の中ではこんな場面が描かれていた。ソ連の内情を探ろうとモスクワ入りしたジョーンズは、モスクワで既に取材を行っていた他の外国人記者から、こんな風に言われる。

君は知らんのだ。今モスクワで記者をすることの難しさが。

ジョーンズの目には、モスクワに常駐している記者たちが、記者らしい仕事をしているようには映らない。ジャーナリストならすべきことがあるはずだ、と感じているのだ。しかし、そういう非難の目を向けられた者たちは、「お前にはまだ現実が見えていないんだ」と諭そうとする。つまり、「ソ連が異常な国だから、記者としてまともに動けなくても仕方ない」と言い訳をしているのである。

まあ、実際にそうなのかもしれないとも思う。確かにこの映画を見れば、当時のソ連が「異常」だったことは明らかだし、そんな国でまともな取材なんか出来ないというのも確かなのだろう。

しかし、「だったらお前たちは何のためにモスクワにいるんだ」という話にもなるはずだ。「ここでは何も出来ない」と考えているのであれば、「私には何も出来ませんでしたすみません」と言って自国に帰るなり、あるいは別の場所に移動して取材するなり、何かやれることはあるだろう。

しかし彼らは、それをしない。現状を嘆くだけで、何も行動に移さないのだ。この点にジョーンズは憤りを覚えてしまう。

また、こんなことを口にする者もいた。

大義を選ばなければならないこともあるのだ。

これは要するに、「革命の途中なのだから、犠牲が出るのは仕方ない」という意味だ。映画の中では、「革命の途中なのだから仕方ない」という趣旨の発言が幾度も出てくるので、これは多くの人が賛同する共通理解だと言っていいのだろう。

確かに、「革命に犠牲は付き物」だとは思う。さらに「革命」は、ある程度時間が経たなければ評価が難しいものでもある。「革命」の最中に、その良し悪しを判断するなど、まず不可能だろう。だから、「革命の途中で出た犠牲」について評価する基準など存在しないと言っていいはずだ。とすれば、「革命の途中なのだから仕方ない」という発言にも、一定の説得力があると考えてもいいのだろうと思う。

しかし、この映画を見れば、そんな風にはとても考えられないだろう。それが数百万人の犠牲の上にしか成り立たない「革命」なのだとして、そんな「革命」を正当化できる理屈など、世の中には存在しないはずだ。

そしてモスクワには、ソ連が覆い隠そうとする「真実」を知りながら、その隠蔽に加担するかのように「真実」とはかけ離れた記事を書き地位や名誉を維持しようとする外国人記者がいる。「フェイクニュース」で報道の賞を受賞したり、メディアが持つ力を己の欲望のために利用したりしているのだ。信じがたい話である。

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