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【問い】「学ぶとはどういうことか」が学べる1冊。勉強や研究の指針に悩む人を導いてくれる物語:『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)

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学生時代には理解できていなかった「学ぶ」ことの本質と、「学ぶ」ためにすべきこと

大人になると「学ぶ」ことから一層遠ざかってしまう

この記事では、「学びとは何か?」という本質的な部分の話を展開していくのだが、しばらくの間、「学び」=「お勉強」のようなイメージで受け取ってほしい。つまり、「知識を得る行為」というわけだ。実際には、「学びとはお勉強のことではない」と示すのがこの記事の本来の目的なのだが、当面は一般的なイメージで「学び」という言葉を使う。

大人になるとそもそも、「学ぶという行為」をしなくなってしまう。仕事に必要な資格の勉強をしたり、スキルアップや転職のためにTOEIC・プログラミングを学んだりすることはあるかもしれない。しかしそれらは、「働く上で必要だから」という理由であって、「何かを知る・理解する」という目的ではないことの方がほとんどだろう。

大人になるほど、「学び」から遠ざかってしまうというわけだ。

確かに、様々な理由から「仕事」に軸足を置くことになっていくので、「学び」のための時間を確保するのが難しくなるだろう。しかしそれだけではなく、「学び」のための「好奇心」が無いということも大きいと思う。

では、学生時代はどうだったか。

もちろん、勉強が嫌いだったという人もたくさんいるだろうし、そういう人からすれば、学生時代からずっと「学び」の動機なんかなかった、という感じだろうと思う。しかし中には、勉強するのが好きだった人、あるいは好きとまではいかないけど決して嫌いではなかった人もいるはずだ。

私も、割とそっちのタイプである。勉強するのが、結構好きだった。

「夏休みの宿題を夏休み前に終わらせ、夏休み中ずっと勉強している」ような子どもだったと書けば、どのぐらい好きだったのか伝わるだろうか。子どもの頃は自分の部屋がなく、「『勉強する人だけが使える部屋』にずっといたかった」という環境的な要因もあったのだが、勉強するのが好きだったことも確かである。

ただ、子どもの頃のことを振り返ると、もう少しちゃんとした動機で勉強していれば良かったと後悔してしまう。

「知らなかったことを知れる」とか「難しい計算が解ける」など、勉強そのものに対する楽しさも確かに感じていた。しかしその一方で、「友達を作ること」も私が勉強を熱心にしていた大きな理由の1つだったのだ。

私は、今でもそうなのだが、自分から話しかけて他人とコミュニケーションを始めるのが得意ではない。話しかけられれば誰とでも話せるし仲良くなれる自信は割とあるのだが、自分から関わるのが苦手なのだ。

だから学生時代はずっと、「勉強を教える人」というキャラクターのみで乗り切っていたと言っていい。

私がそこそこ以上に勉強ができることは知られており、また結果的に誰かに何かを教えることも得意だったので、「勉強を教えてほしいと思っている人」が話しかけてくれた。大学に入るまでの私は、すべての人間関係をそれ一本で乗り切っていた記憶がある。そして、いつ「勉強を教えてほしい」と言われても正しく対応できるように常に勉強を欠かさない、というのが、私が勉強に勤しんでいた大きな理由の1つだったと言っていい。

だからこそ大学入学以降は、それまで持っていたような熱心さでは勉強ができなくなってしまった。大学ではどうも、「勉強を教えること」がコミュニケーション上の利点にはならないと気づいたからだ。もちろん、自分の成績を維持する程度の勉強はしていたが、ずっと勉強し続けていた高校時代までの熱量みたいなものは、大学に入ってから消えてしまった。

もう少し「学び」のための動機を探し求めておくべきだったと思う。

今でも、ノンフィクション本を読んだり、ドキュメンタリー映画を観たりして、自分が知らない世界や知識について知りたいと思っているし、そういう事柄への関心は強く持っている。「学び」と言えば学びかもしれない。

しかし、この小説を読んで、「既存の知識を知ることは『学び』ではない」と理解した。「学び」の本質はそこにはない。だから結局、ノンフィクション本を読んでいようが、ドキュメンタリー映画を観ていようが、私がしていることは「学び」ではないということになる。

では、「学び」とは一体なんだろうか?

「問題を解くこと」は「学び」ではない

この小説は、普通にエンターテインメントとして楽しめる作品なのだが、一方で、「学び」とは何なのかを理解させてくれる作品でもある。

「既にあるものを知ることも、理解することも、研究ではない。研究とは、今はないものを知ること、理解することだ。それを実現するための手がかりは、自分の発想しかない」

この作品では研究者が主人公であり、その視点で物語が展開するので、「研究とは何か」がテーマとなる。しかしこれは決して研究者だけに関わる話ではない。「何かを学ぼうとするすべての人」に対して、「学びとは何か」を示唆する発想とも言える。

そしてその要点こそが、「今はないものを知ること」というわけだ。

そういう意味では、数学の問題を解くことは、極めて昆虫的だった。あれは考えているというよりは、おびき寄せられていただけなのだ。

問題を解くことも、既存の知識を知ることも、「学び」の本質ではないのだ。

そういう意味で、学校の勉強というのはすべて「学び」ではないと言える。

これは、すべてのことにいえると思う。小学校から高校、そして大学の三年生まで、とにかく、課題というのは常に与えられた。僕たちは目の前にあるものに取り組めば良かった。そのときには、気づかなかったけれど、それは本当に簡単なことなのだ。テーブルに並んだ料理を食べるくらい簡単だ。

もちろん、学校の勉強が無駄というわけでは決してない。それは、「スタートラインに立つ」という行為なのである。「今はないものを知る」ためには、「今どこまで分かっているのか」を知らなければならない。学校の勉強では、その作業をしていると言っていい。

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