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【感想】映画『朝が来る』が描く、「我が子を返して欲しい気持ち」を消せない特別養子縁組のリアル
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「誰にでも起こり得る」のに「その可能性を無視している」ような世界を描く映画『朝が来る』が切り取る「特別養子縁組」のリアル
思っていた以上に素晴らしい映画です。東京オリンピックの記録映画を始め、色々と毀誉褒貶のある監督ですが、やはり河瀨直美は良い作品を撮るなぁ、と感じました。
「特別養子縁組」を軸にしながら、「そんなことが起こるとは思ってもみなかった」という私たちの「油断」を浮き彫りにする
映画『朝が来る』では、「特別養子縁組」がメインのテーマとして扱われます。ご存知の方も多いでしょうが、一応説明しておくと、「生みの親との法的な親子関係を解消し、養子でありながら実子と同じ親子関係を結ぶ制度」です。このブログには、「特別養子縁組」の制定に尽力した石巻の産婦人科医を取り上げた本についての記事もありますので是非読んでみてください。
さて、『朝が来る』では確かに「特別養子縁組」が扱われるのですが、だからといって「特別養子縁組」の物語というわけではないと私は感じました。この映画では、「特別養子縁組」という題材を扱うことで、「『誰の身に起こってもおかしくはないのに、そんなことが起こるなんてまったく想像もしていなかったこと』に直面せざるを得なかった人たち」を描き出しているのだと言っていいでしょう。
あまり適切な例とは言えませんが、ざっくり「地震」のようなものをイメージしてもらえばいいかもしれません。まさに「誰の身に起こってもおかしくはないのに、そんなことが起こるなんてまったく想像もしていなかったこと」ではないでしょうか。私も、災害が起こることを前提に、あらかじめ出来る準備はそれなりにしているつもりですが、しかしそれでも、自分が本当に被災したら、「まさかこんなことになるとは思わなかった」と感じてしまうだろうと思います。
「特別養子縁組」と言われると、「自分とはあまり関係ない」と感じられてしまうかもしれませんが、そういう捉え方は適切ではないと思います。何故ならこの映画は、「起こるはずなのに、起こるはずがないと思いこんでいたこと」が本当に起こってしまった時の混沌を切り取るものだからです。こういう捉え方をすればきっと、誰にでも関係する物語に感じられるのではないかと思います。
「起こるはずなのに、起こるはずがないと思いこんでいたこと」には様々なものが当てはまるでしょうが、そこには共通点があると感じます。「どんな選択肢を選んでも不正解」という共通項です。「起こるはずがない」と思い込みたいのは、「それが起こった時に選べる『正解』が存在しないから」かもしれません。「正解」が存在するなら、努力の余地があるし、事前の準備のしようもあります。ただ、「すべてが不正解」なのだとしたら、あとは「起こらないことを祈る」しかないというわけです。
『朝が来る』でも、どんな決断をしたところでそのすべてが「不正解」でしかないような混沌とした状況が描かれます。そういう時、私たちには一体どんな振る舞いができるのか。そういう問いを突きつける作品だと私は感じました。
「正解」が存在するなら、それを選び取る努力をすればいいだけです。しかし、「関わっている人全員が、積極的に悪いわけではない」にも拘わらず、「目の前に存在するすべての選択肢がすべて不正解」でしかないという場合、一体どう行動すべきでしょうか。『朝が来る』で描かれるすべての登場人物と、彼らの決断に対して、私はずっとそんな風に考えてしまいました。本質的には誰も悪くないのに、それでも結果として全員が不幸になってしまうようなしんどい状況の中で、「これを『正解』だということにしよう」という重苦しい決断をせざるを得ない者たちの葛藤が胸に刺さる作品と言えます。
「自分のお腹を痛めた子ども」であることは、それほど重大なことなのか?
映画の冒頭で、こんな場面が描かれます。主人公の栗原佐都子は幼稚園から、息子の朝斗が友達をジャングルジムから突き飛ばしたと聞かされました。その友達は怪我をしており、「朝斗君に押された」と主張しているという状況です。一方の朝斗は「僕はやってない」と母親に訴えるのですが、彼女は息子の主張を完全には信じきれません。そして、子ども同士のいざこざにどう対処していいか分からなくなり困惑する、というシーンです。
映画の中でそうとはっきり描かれるわけではないのですが、佐都子が息子のことを完全に信じきれないのは、朝斗が養子だからだろうと思います。勝手な想像ですが、恐らく「自分のお腹を痛めた子ども」であれば、もう少し違った反応になったでしょう。少なくとも映画では、そのように示唆されるように私には感じられました。
私が男だからかもしれませんが、私は正直、「血が繋がっているかどうか」みたいなことにまったく関心が持てません。クソどうでもいいと思ってしまうのです。「血の繋がった家族」だから親愛の情を抱くなんてこともなければ、「血が繋がっていない他人」だから遠く感じるなんてこともありません。「血が繋がってるかどうか」は私にとって、「背が高いか低いか」程度にしか感じられないのです。人生において「血の繋がり」が際立って重視される理由がイマイチ分かりません。
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