最近の記事

善とは何か

「やらない善よりやる偽善」という言葉がある。 私は何となく、この言葉に対して違和感を覚えていた。 やらない善とは何か? ーー「良いこと」の考えや思想を自らの内に持ってはいるが、それを体現していないこと。 やる偽善とは何か? ーー真の性格=本心でやりたいとは思ってないが、「良いこと」を体現していること。 善とは結果である。 それが本心でなくとも、どんなに危ない思想を持っていても、「良いこと」をやっていれば、それは「善」なのではないか。 「偽善」ーーなぜ本心に拘るのか。

    • 3月11日の今日、春のにおいがした。

      春のにおいがした。 毎年、春を感じるタイミングが何度かある。 今年は2回。立春の2月4日と、今日3月11日。 ほんのり暖かい空気と、ちょうどよいそよ風、そして冬の寒さから解放されたかのように、踊るように舞う土の香り。 毎年訪れる四季の変わり目には、沢山の命の声がする。 草木や土、水、動物などのあらゆる生が生まれ、そして死にゆく循環を目の当たりにする。 春の始まりは、この世界の循環の出発点である。多くの生命が暖かさと共に地に宿り、始まろうとしている新しい日々に、生きる希

      • シンプルであるということ

        最近、フラットデザインなるものをよく目にする。 余白を意識し、シンプルで洗練されているものがお洒落だと、そういう風潮がある。 ローソンのパッケージとかもそうだし、どこかの小さな会社のロゴだって、何かのイベントのチラシだって、そんな感じである。 私は、「シンプルなもの」が好きだ。 しかし私は、シンプルであることが先行してはならないと思っている。 「シンプルさ」とは、エゴと究極愛の塊である。自分の好きなもの、それに対する愛、感情。それらが究極に達した時、自分にとっての無

        • 明けることを、受容できない。

          新年明けましてを控えて、各種SNSが活発になっていく。 1年間を丁寧にふりかえる人。 お世話になった人に感謝を伝える人。 2021年に綺麗さっぱりお別れをする人。 2022年に期待を抱く人。 思い思いに発信する人であふれるSNS上に、私はなぜか辛さを感じていた。 タイムマシーンが発明されない限りもう一生やってこない2021年に、なぜきっぱりと別れを告げることができるのか。 2022年という未知の世界に、期待を持って進み出すことができるのか。 つらい 怖い 明けたくない

        善とは何か

          劣等感とたたかう

          中高と、バスケットボール部に入っていた。 私はバスケが大好きで、朝から寝るまでバスケのことを考えた。 毎朝学校にシューティングしに行き、夜は高架下でドリブル、授業のノートは全く減らないのに、バスケノートはどんどん増えていく。 中学は強豪校だったけど、最後の大会で今まで一度も勝ったことがない相手に勝ったときの感触は、今でも熱く残っている。 高校生になっても、大学でも、大人になっても、ずっとバスケをやりたいと思っていた。 ただ、そこに才能は伴わなかった。 高校に入ってか

          劣等感とたたかう

          量と質

          完璧を求めすぎて、足踏みしてしまうことがよくある。 何かを始めようとするとき、自分のスタンスを再確認して、より良い手段を考えて、その後の未来を思い描く。 より良いものを、と考えるとき、その着地点をうまく設定できない。考え続けてきてもキリがないことは分かっているのに、思考を掘り下げすぎてしまう。 完璧でないことはやるべきじゃない、 一番良い選択肢を、と。 そんなことを考えていると、気づけば何ヶ月も経ってしまっている。 協力隊も、色々と考えているうちに7ヶ月が過ぎてしまっ

          誕生日を、ハッピーに過ごす

          「年齢」とは何だろう。 誕生日を迎えて、ふと思った。  昔は誕生日がすごく嬉しかったはずなのに、23歳の誕生日は、ほとんど無感情だった。 それは別に、歳を重ねる実感が湧いてきたとか、あっという間にアラサーだとか、そういうことではない。 誕生日を迎え「年齢」を重ねるという事そのものに興味がなくなったとか、そういう感覚だ。 わたしたちは、わかりやすいように1年を365日と言う単位で区切って、それに人間の成長を当てはめて年齢と呼んでいる。 一年、もう一年が過ぎ、その流れの中

          誕生日を、ハッピーに過ごす

          幸せのハードルを下げる

          「アフリカの人たちは、小さなことから幸せを見出し、笑顔が絶えない」 「貧しくても、日本人よりも幸せを感じている」 数ヶ月途上国を旅した人たちが、よく言う言葉である。 これは正しいとも言えるが、間違っているとも言える。 アフリカでは、幸せのハードルが異常に低い。 これは日本から見て、だ。 そもそも幸せの基準が先進国とは全く違うので、比較するのもおかしな話である。 小中高、ましてや大学を卒業なんて、多くの人にとって叶わない夢だ。 勉強する、学ぶ、発見する アフリカの

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          消費社会に生きる

          Amazonで買ったモノが、いくつも家に届いた。 大量消費社会に生きる私たちは、欲しいものは殆ど手に入るし、ちょっと頑張ればそれなりに高価なものも買うことができる。 きっと、それで心を満たしている。と思い込んでいる。 現代の人々は、選択するというハードルが下がり、選択するための思考がどんどん浅くなってきているように思う。 「欲しければ、買えばいい。」 私だってそうだ。 けれどよく考えてみる。 欲しいと感じたモノを、その直感にだけ従って直ぐに手に入れることは、果た

          消費社会に生きる

          「個性」なんて、くそくらえ

          私という人間は、他の誰でもなく「私」なのか、と考えることがある。 人間とは、環境に依存する生き物である。 環境次第で性格も言葉も行動も、習慣も考え方も生き方も全てが変わってくる。 つまり「個」とは、各個人が持つ先天性の細胞レベルの違い(運動神経等はこれに分類される)を中心に、何千何万それ以上の「環境」という線が交わった、唯一つと言っていいモノである。 つまり、 「個」=「先天性能力」×「環境の集積」 と言えそうだ。 どちらか一方が欠けていれば、「個」は成り立たない。は

          「個性」なんて、くそくらえ

          原体験を知る

          なんて浅ましい人間だ。 ひどく情けない、自分に呆れる。 最近、自分の「原体験」を探るきっかけがあった。 信頼している人にお薦めされただけ。表紙にでかでかと啓発文が並んでいる本なんて、いつもは読まない。 「原体験」とは、今の自分を構成している全ての事象の、一番深層にある体験・きっかけのことだという。 今まさに打っているこの文章も、22年間の人生で会ってきた人間、会話、行動、風景、体験、それら全てが混合して(あるいは濾過されているかもしれないが)、生まれた結晶であると言える

          原体験を知る

          文章を書くということ

          文字というのは、極めて意図的だ。 文章を書くとき、感じたこと考えたこと、そんな抽象的なものを自分の中で言葉に当てはめて、良いように形作っている。 私はたまに考えることがある。自分がつらつらと書く文章は、本当に自分の真意なのか?本当にそれが言いたいのだろうか?つながっていくパズルみたいに、書いていくうちにいい感じに完成させているだけではないか? つまり文章は、自分がそう思っていると自分自身に言い聞かせているだけなのかもしれない。それでも、それが本当のわたしみたいな顔して、

          文章を書くということ