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誕生日を、ハッピーに過ごす

「年齢」とは何だろう。
誕生日を迎えて、ふと思った。 

昔は誕生日がすごく嬉しかったはずなのに、23歳の誕生日は、ほとんど無感情だった。


それは別に、歳を重ねる実感が湧いてきたとか、あっという間にアラサーだとか、そういうことではない。

誕生日を迎え「年齢」を重ねるという事そのものに興味がなくなったとか、そういう感覚だ。



わたしたちは、わかりやすいように1年を365日と言う単位で区切って、それに人間の成長を当てはめて年齢と呼んでいる。
一年、もう一年が過ぎ、その流れの中にいる。

日本には四季があるけれど、それは別に巡るのではなく、一方的に訪れるだけだ。


そう考えるとわたしたちは、宇宙の中の無数の点に無理やり輪を作って、「年齢」と言っているだけなのかもしれない。


人間は個人個人で細胞レベルの成長スピードは違うだろうし、それを絶対的指標で測るのはどうして意味があるだろうかと考えたりする。


そんな私は23歳になった。
少し前までは誕生日を迎えると、なんだか自分が少し成長したような気がしていたけれど、23歳の誕生日はまるでそうではなかった。

普通の日も誕生日も何も変わらない。ただ変化の中にある自分が、相も変わらず少しだけ変化しただけなのである。
それは別に、何でもない日も同じだ。


年齢という肩書きがあるだけで、人の見方はまるで変わる。社会からしたら便利なものだ。

私は自分の中で、年齢にとらわれる事はしたくない。年齢に甘んじたり年齢のせいにしたり、年齢を言い訳に何かをやらないなんてことは、自分の絶対的な価値を信じてあげられていないことになる。


ただやっぱり誕生日はなぜか少し嬉しい。

地球が23年前と同じ位置にあり、この瞬間に生を受けたことを考えると、やっぱり生命の神秘を感じざるをえない、なんてことも思う。

それについて、周りから祝ってもらうことも、やっぱり嬉しい。

年齢というものに疑問を持ちながらも、誕生日はある意味長いマラソンの休憩ポイントみたいなノリで、自分のこれまでの頑張りだとか歩みを、一旦振り返ってみる日にしてしまうだとか、周りの人に一日だけでも思い出してもらって、何かが繋がる日にするだとか、

こじつけかもしれないけど、人間が考え出した誕生日という日を、意図的にとってもハッピーな日にすることは、すごく意味のあることだな、と思う。

なので、誕生日という通過ポイントには、これからも自分の道しるべになってもらいたい。

お祝いしてくれた方々、本当にありがとうと、誰も見ていないnoteでつぶやく。

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