原体験を知る
なんて浅ましい人間だ。
ひどく情けない、自分に呆れる。
最近、自分の「原体験」を探るきっかけがあった。
信頼している人にお薦めされただけ。表紙にでかでかと啓発文が並んでいる本なんて、いつもは読まない。
「原体験」とは、今の自分を構成している全ての事象の、一番深層にある体験・きっかけのことだという。
今まさに打っているこの文章も、22年間の人生で会ってきた人間、会話、行動、風景、体験、それら全てが混合して(あるいは濾過されているかもしれないが)、生まれた結晶であると言える。
結晶なんて、そんな綺麗なものではないが。
私は小学生までは、何もしなくても周りに人が集まってくるタイプで、人間関係に全く苦労せず、むしろそれが当たり前だと思っていた。
性格も明るく元気で、(便宜上)世間一般で言われる理想の人間像に近かったと思う。
ただうちは転勤族で、転校を何度も経験する度に、自分が自分で無くなる感覚が増し、中学校の頃にはプライドだけが膨れ上がった内向的な人間になっていた。
寂しかった。
自分は、こんなにも必要とされていないのか。大袈裟かもしれないが、毎日そう感じては、それを誰かに悟られたくなくて自分を偽り続けた。誰かにあなたが必要ですと、言えなかった。
今考えれば、何もしなくても人が集まってくるなんて幻想で、そんなに世の中甘くない。
ただ、あの頃は何もしなくても人が集まると思っていて、そうじゃなくなった時にどうすればいいか分からなくて、酷いことに人の所為にしていたこともある。
認められたい、褒められたい
私の原体験は、おそらくそこにある。
なんて浅ましい人間だ。
人の為にあれをやりたい、なんて立派な理由を付けて、結局は自分のため。
全部自分のため。
なんてことに気付いてからは、自分が酷くネガティブ思考である理由を理解することができた。
認められたいということは、自分が自分を認められていない証拠だ。
自分に自信なんてカケラもないし、敏感な人は私の負のオーラがすぐに伝わるらしい。
酷いことに、他人を見るときも、マイナス面から見てしまう。
ずっと他人の目を気にして、比較して、他人指標でしか生きられない人間だから。
他人のマイナス面と自分のプラス面を比較して、無意味な安心感・優越感を抱いては、無意識下で自分を認めようとしている。
唯一褒めて良いことは、ようやく認識でき始めた、ということだ。
負の感情が漏れていく穴を、やっと見つけられたのだ。
認識は、行動を変える第一歩だ。今まさに、ここにいる。
他人を無意識的にプラスに考えることは、まだできない。けれど、マイナスに考えてしまったその瞬間を認識できると、それを意図的にプラスに変換することができる。
こじつけでもいい。言い聞かせるでもいい。
その行動が、いつか習慣に変わる。
そして、無意識という領域に到達するかもしれない。
人は、変われる。
変わろうとしている自分は、尊い。
いつか本心から自分を認めることができて、本気で他人を思える人間になれたら。
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