シンプルであるということ
最近、フラットデザインなるものをよく目にする。
余白を意識し、シンプルで洗練されているものがお洒落だと、そういう風潮がある。
ローソンのパッケージとかもそうだし、どこかの小さな会社のロゴだって、何かのイベントのチラシだって、そんな感じである。
私は、「シンプルなもの」が好きだ。
しかし私は、シンプルであることが先行してはならないと思っている。
「シンプルさ」とは、エゴと究極愛の塊である。自分の好きなもの、それに対する愛、感情。それらが究極に達した時、自分にとっての無駄が一切ない状態、つまり「シンプル」が生まれる。
ここで言う「シンプル」とは、余白や中身の「量」どうこうではない。
シンプルであるということは、ひとつの結果でなければならない。
もちろん、シンプルだけが結果であるべきでもない。エゴと愛の結果がまるで生態系のように、複雑かつ循環しているものであったっていい。
要は、「それがわたしの答えなのか?」ということである。
本当に、心からそれを良いと思っているのか。
そこにわたしの愛はあるのか。
わたしだからこそできるものなのか。
20万も払ったからと、そのデザインを何の疑問もなく受け入れていないか。
人にウケそうだからと、心から良いと思っていないものを作っていないか。
最近の「シンプルさ」を持て囃す風潮は、単なる没個性を助長しているような気がする。
突き詰めた結果のシンプルと、シンプルの結果としての没個性。
それらはすごく近いところにいるようで、対極にあるのである。
その違いは、わかる人にはすぐわかる。
なぜなら、ソレは呼吸をしている。
デザインであっても、店であっても、何であっても、呼吸をしている。宿っているのだ。
一応言っておくが、デザインというのは、デザイナーのことを言っているのではない。デザイナーはあくまで「本人」の意図を汲み、表現の手伝いをする人である。
デザインを頼む「本人」にエゴと愛があれば、そしてデザイナーとの意思疎通ができれば、「呼吸」をすることなど容易い。そういうことである。
私は今溢れている多くの「シンプル」に対して、愛を感じることが滅多にない。
もちろんそれは自分に対しても同様で、私はそれを体現している人にひどく憧れ、そして劣等感を持っている。
今の自分ができることといったら、今の自分が持つ「愛情」に忠実に、決して妥協せず、生きることなのかもしれない。
自分が本気で良いと思うものだけをつくりたいし、それが自分という人間を克服する、唯一の手段であるような気がした。
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