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結局、人の目で生きているのか

こんにちは。おーちゃん柔です。

コロナ禍でリモート化が進み、わたしもオンラインの交流会に参加したりする機会が多くなってきた昨今でした。目的は、やはり自己の承認欲求を満たすためというのもあることと思いますが、出続けてしまうのもなかなか疲れるもので、バランスの取り方がよく分からない私です。

そんな中、先日、オフラインの(リアルの)交流会に出てきました。オンラインに飽きてきたというのもあるでしょうが、少しお金に余裕が出ての産物とも言えるかもしれません。

進行はオフラインの時と、あまり変わりませんが、やはり画面越しと目の前に存在している人と交流するのは訳が違うなあと言った印象でした。

生活保護、ほぼ無職の私です。ここからは、私の主観を交えた先入観に関するお話になるのですが、生活保護と無職というのは、私にとって「恥ずかしい肩書」なので、伏せておきました。私がオープンにした肩書は「デイサービスの介護職」だということにしました。とは言えども、やはり露呈したのはコミュニケーション力に歴然とした差が産まれていたのは事実です。

私は初めてのリアル交流会で、とてもドキドキしていましたし、声もあまり出すことができずにいました。制限時間が近づけば、ライン交換をするのですが、オンラインの場合と同様気になった人とは後日オンラインでお話する機会を設けるのと同様、リアルの場合も後日、予定を組んだりする訳ですが、それに気が引けてしまっている状態の私です。

隠し通せたかに見えた生活保護とほぼ無職、さらに障害者(この言葉を使うのには違和感がある)。※精神障がい者(うつ病持ち)。リアルで少人数でまた機会を作ればその辺が全て露呈してしまいそうで、私は怖いと感じたのです。

私が隠そうとしているネガティブな単語は「生活保護」「無職」「精神障がい者」「未婚」とかです。厳密に言えば、私は無職ではないにしてもフルタイムで働いている者ではありません。まあ考え方によっては、会社勤めとフリーランスのような人を天秤にかける人もいるでしょう。全ては、個人個人の考え方ですし、常識というものは存在しないとした上でなのですが、その一方で恥ずかしさや、罪深さなども感じてしまっているというのは事実です。

そう思ってしまっては、他者視点で生きようとしてしまう自分がいるというのも事実でして、私が楽団に入るタイミングで週1でも働き始めた時のような他者視点での罪深さのような物を持たないようにしたかったのです。

生活保護を抜けるのは大変なことです。それは重々承知しています。承知しているつもりです。それでも、フルタイムまで行かずとも、それっぽく働くということも(他者視点で考えると)大事なことのように見えてきてしまうのです。

そのきっかけが、今回のオフラインの交流会だったっていうだけの話です。出なければこの考えには至らなかったと思うのですが、時間は巻き戻せないので、2回目の就労支援施設への見学を決めてしまいました。ただ、それは初めての入所した就労支援施設は2カ月しか居られなかったのに対して、今度の所は2年くらいは利用できるとのことで、もう少しじっくり考えられるのかな?とも思っています。

ただ怖いのは、トラウマともいうべき感じになっているのは、「障がい者として見られること」です。私が約2年働いていない(被雇用者になっていない)理由はそこにあるんです。それによって再び体調を崩さないかです。一方で、働いていない時間も気持ちの揺れはあります。人間である以上、気持ちの揺れない人はいないと思うのです。

この投稿では、考えをまとめるということができません。考えが揺れながら、行動を促しているからです。ただひとつ言えるのは
就労支援施設、すなわち文字通り、就労を支援する施設に行く訳ですから、ゴールは「働く」ということなんです。

周りの人、一般人と呼ばれる人にマウントを取られたり、優越感を抱かれたりしても、強い心の持ち方でいられるように、そういう姿勢を貫くことができる気持ちの持ち方で生きられるようにするということが目的なのではないかと思う訳です。

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