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はじめまして。(その3 新しい世界との出会い)

みなさん、こんにちは。前回、自己紹介の続きで僕に影響を与えたと思う、高校時代の事を書きました。

今回はそれとは別に僕のルーツだと思っている、大学時代の事を少しお話ししたいと思います。あらためてここに時間をかけすぎると、本当に自己紹介だけで終わる💦ので、遠い記憶は頭を整理してかなり端折りながら今回も書こうと思います。

●苦手な英語をやると決める長い大学生活の始まり

暗黒の浪人時代。苦手な英語を克服し入学した大学。それが京都産業大学です。受験の時は偏差値がすごいことになっていたので、予備校からはもう一年浪人すれば慶応だとか、早稲田とか、同志社とか関西学院とか、一流大学に絶対いけるからガンバレ!的なセールスを受けたのですが、さすがに2浪は..... 浪人というどこにも属していない的なステータスも嫌だったし、友達もできなかったし、とにかくそこを脱出したかったので、何を血迷ったのか苦手だった外国語に挑戦してみようと思い、外国語学部英米語学科国際関係専修コースを選びました。

部活しかしたことがなく、その後缶詰の受験勉強。いわゆるキャンパスライフは最初僕にとってワクワクとドキドキしかなかったです(笑)。仲良しの男友達も女友達もできて、あんなこと、こんなことをそこから6年かけてやっていくとは思ってなかったですけどね。6年って長くないか?はい。ちょっと長いです。最初にお話しすると、留年と休学を経験しています。


●ようこママとの出会い

キャンパスまでは自宅から2.5時間ほどかかったので、親に頼み込んで京都で下宿生活を始めました。初めての一人暮らしです。そこは公表できるようなことはないので割愛しますが、いわゆるバイトに明け暮れる生活が始まりました。昼は引っ越し屋さんでバイト。日給¥8,000ぐらいだったかな。夜は20:00から京都祇園の「ラウンジMようこ」というラウンジでボーイとして働き始めました。ようこママは、大人の色気のある女性で、パトロンを何人ももってお店をきりもりされていた。派手な衣装やきれいな顔とは別にとてもまじめで、過去につらいことがあったというところまでは当時聞いたけど、本当のところは絶対語ろうとしない(すごく知りたかった)。しつこいお客さんから自分を守るために僕のようなバイトを雇い、平日の夜はどこに行くのも一緒みたいな生活が始まりました。当時なんか、「ママを守るのは俺だ」みたいに用心棒チックな気持ちがあったのを覚えています。料理を教えてくれ、お酒の作り方や、接客の仕方、厳しいひとだったけど、一つできると「がんばったな」「ようできた」とほめてくれる。そんな素敵なひとでした。

夜中に店が終わって、だいたいお客さんとママと食事にいって、そのままママを送ってから家に帰る、寝て起きたら昼で、学校に行ったり行かなかったり。少し仕送りは親からもらっていましたが、それに有り余るお金稼ぎを覚え、その代わり、学校で勉強することを犠牲にした。それは今でも少し後悔しています。

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でも夜の仕事はなんか楽しくて、若めのお客さんから、年配の方までたくさんのいわゆる「社会人」の方と店でお知り合いになり、ゲイバーに連れて行ってもらったり、自宅に呼んでいただいたり、話していただいた話が面白くもあり、たまに身の危険を感じるようなお客さんもいましたが、浪人という閉鎖された空間や時間から、一気に自分が自由にできる時間を楽しむ毎日が始まりました。


●海外へ飛び出してみる

そんなある日、お客さんの一人、梅月さん(ご本名です)という方が、「谷君、外国語学部やろ?海外とかやっぱり行ってるんやろ?」と質問されたんです。確か1回生の夏だったと思います。

「いえ、一回も行ったことないです」

もっというと、パスポートすら持ってなかったです💦。結局、その方のご招待でママと3人でオーストラリアへ行ったんです。夜お店でみる梅月さんは、いわゆる酔っ払いで、くだらない話しかしない初老の紳士崩れ。でも、オーストラリアの彼は英語が堪能で、どんなこともべらべらしゃべる(ように見えた)。とても頼もしいジェントルマンでした。僕は、

「世界にはこんなところがあるんだな!」「英語とか外国語ができれば、世界中どこにでも行けるかも!」

みたいな、うまく言えないけど、頭から足の先まで痺れるような感覚がありました。

「外の世界がみたい」

結局そこから、バイトして、長期休みは海外を周るみたいなことを5年間繰り返したんです。当時はまだネットもなく、外国の情報は限定的だったころ。バックパッカーとして、一人で旅する。往復の航空券だけ買って、あとは結構フリーで行くみたいな。特に覚えているのは、アメリカ、カナダ、ジンバブエ。そしてカナダから飛んだヨーロッパ諸国。カナダは次回「ワーキングホリデー」で書きます。その他はまた機会があれば書こうと思いますが、アメリカは広く、常に活気にあふれ、強いイメージ。その何年か後に僕がそこで仕事して生活するようになるとは夢にも思っていなかったです。ジンバブエは、親友が海外青年協力隊で赴任していた国ですが、頭の上からどでかい盥をたたきつけられたような衝撃があった。電話がないってこういう事かとか、電気がないから夜寝るしかないとか、その一方で白人社会で差別される黒人の人。その黒人に差別を受ける僕ら黄色人種を経験した。ヨーロッパは特にイギリスとフランスの眺めてるだけで絵になる古い歴史の街に虜になりました。その時iPhoneがあれば、どれだけ写真を撮っていたかわからないぐらい。でも、そんなときだったので、その時の景色は全部じゃないけど、記憶の中にあります。間違いなく、この時期が僕のその後に大きく影響していて、今の自分のルーツになっているように思います。

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長いこと学校に通ったので、両親には迷惑をかけたし、25で社会人になったんですが、先に社会に出て行った友人たちと違うかもしれない自分に焦りみたいなのも最初はありました。けど、今もそう思っているんですが、「人と違う事」を怖がらない。「自分は自分でしょ」。「どんな人にも見てくれて評価してくれる人がいる」「中途半端にやるんだったら、思い切りいけよ」「納得感」「世界で活躍する」「人との出会い」「弱いヤツは守りたい」「理不尽なことは受け入れたくない」「助け合い」みたいな価値観が育ち始めた時期だったように思います。

今回はこれでおしまいにしたいと思います。続きはまた今度です。読んでいただいてありがとうございました!

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