ルールとマナー、教育のためにできること
展覧会を愛し、美術館や博物館へ足しげく通う者のはしくれとして、どうしても避けては通れない話題としてこの件を取り上げます。今回のニュースつぶやきは拡大版です。
発端となっているのはnoteのユーザーさんの記事です。縁もゆかりもない方なので直接リンクは貼りません。お読みになりたい方は検索していただくようお願いします。
記事の主な趣旨は「子供を連れて訪れた博物館で子供の模写行為を禁止された、子供の好奇心・探究心・学習をそぐような運営やルールがまかり通っているのが納得いかない」ですね。
全部読んだ感想は、「1割は言いたいことはわかる、9割は全く賛同できない」です。「子供の前でルールに違反していることを注意されて逆ギレし、論点をすりかえて教育的見地という修飾に包んで投稿したけど怒りや不満が隠しきれていない」記事という印象が強かったですね。全体的に見て、子供のスケッチブックをわざわざ撮影してアップするなど被害者を装って賛同を集めようとする手口が散見され、前述の通り怒りや不満が透けて見えるため、各SNSでボコボコに叩かれているので、東スポWebの言う「賛否両論」の賛と否が1:99くらいになってしまっています。
今回の私の記事で語りたいのは、美術館や博物館、その他の場所で行われる展覧会におけるルールとマナーがどうやってつくられているのか、ということです。
■展示、展覧会の役割とルール
美術館や博物館はさまざまな役割を持っています。物品を収集して保管・保全する施設であり、収蔵品に関する研究を行う施設であり、広く一般に開放して鑑賞に用立てるエンターテインメントおよび普及施設であり、国民の好奇心・探究心に応える学習施設であり、精神的な素養、余裕を培う施設でもあります。
このように役割が複合しているため、美術館や博物館のルールやマナーはそれぞれの役割の目的とするところがかち合ってしまい、どうしても折衷案を取らざるを得ないことが多いというのがひとつの特徴として挙げられます。
例:劣化を防ぎたい「収蔵品の保全」と劣化を促進させる結果をもたらす「収蔵品の展示」は相反する役割である。
これに、その館独自のルール、その展示、展覧会独自のルールが追加されるのです。
例えば、浮世絵専門の美術館である太田記念美術館などは、展示室の照明を極力暗くし、常設展示も2ヶ月ごとに入れ替えています。浮世絵の顔料は特に光で劣化しやすいため、「作品の保全」と「作品の展示」で綱引きをした結果、この形に落ち着いているのであって、ここに『暗くて展示物が見づらい、もっと明るくしろ』『以前見た作品が見たい、通年展示しろ』という要求は通りません。これは館の定めた、館のルールであり、これに従えない、不満があると言うのなら、来なくてもよいのです。もっと明るい照明の館に行けばよいだけなのですから。
また、同じ館であっても、特別展ごとにルールが変えられることがあります。特別展は、館独自のコレクションで行われる収蔵品展の場合もありますけれども、そのほとんどが他の美術館や博物館から展示品を借りてきて行います。このときの取り決めで、追加のルールが決定されます。特別展でも撮影可だったり不可だったりするのはここでの取り決めでルールが決定されるからです。
■理由の優先順位
ルールをつくるにあたっては、必ず理由があります。そしてその理由には優先順位が存在します。理由の優先順位とは何か?これは、その施設がどんな役割、性格を持っているかによって変わってきます。テーマパークだったらお客さんを楽しませるための理由があり、飲食店だったら清潔を保つための理由があるように、美術館や博物館には「作品を保全しつつ展示し、来館者を満足させ、広く文化芸術を普及させるため」の理由があります。すべてのルールは、理由からつくられています。決して適当につくられているわけではありません。
例:撮影不可というルールの理由
・撮影時にフラッシュや補助光、撮影ライトなどの光を浴びせると劣化する作品があるから
・撮影者はファインダー内、または画面しか見ていないことが多いため、転倒や衝突、それに付随する対人トラブルを誘発するから
・撮影者が機材を構えていると、鑑賞者がその射線に入らないように遠慮して鑑賞の妨げになる恐れがあるから(特に日本人に顕著)
・長時間にわたって同じ展示物の前を占有することによって他の鑑賞者の妨げとなる恐れがあるから
・他の館からの貸し出し品の場合、所有権を明確にするため、貸し出し側が撮影を禁じているから
・そもそも美術館や博物館は撮影しにくるところではなく、鑑賞するための場所であるから
等々
これらの理由で、最も優先されるのはなんでしょうか。
それは、安全性です。
どのような施設であれ、安全性はすべてに優先して確保されなければなりません。快適さや利便性、学習しやすさを多少犠牲にしてでも、安全性は確実に確保されなければならないのです。上記の撮影不可の理由では上から2番目、「撮影者はファインダー内、または画面しか見ていないことが多いため、転倒や衝突、それに付随する対人トラブルを誘発する」が該当します。これは歩きスマホと同じ理由です。人とぶつかって転倒するならまだしも、足元の展示台や柵、ロープに気づかずにつまずいて展示品にダイブしたら。ましてそれがよその館からお借りしたものだったりしたら。どんな美術館であれ、博物館であれ、個人であれ、安全性を確保しない館になど、もう二度と貸してはくれないでしょう。
安全性の確保とは、もちろん来館者の安全を確保することもそうですけれども、展示品の安全を守ることも含まれているのです。今回の記事で問題になっているのは「模写する」という行為ですが、実体験から言いますと、私は集中して鑑賞しているとき、足元でうずくまってメモしたり模写したりしている子供をふんづけそうになったことが何回かありました。もちろんそれで私が転ぶ危険もあったわけです。また、学校の行事で子どもたちが大挙して押し寄せ、主要な作品の前に群がって他の鑑賞者の妨げとなっていた光景を何度か目撃しています。
■マナーを守れないならルールになる
私がこの光景に出くわしたのは都内の大きな美術館でした。模写を禁じてはいませんし、寄託作品以外の常設展示は撮影可能でした。しかし、禁じられていないからといって、ひとつの作品の前の床に長時間居座って模写し続けたり、自撮りを何十回となく繰り返していいわけではありません。
ここが、この部分がマナーなのです。マナーとは明文化されたものではなく、あくまで自分以外の誰かに対する気遣いです。それができないようなら、ルールで明文化するしかないのです。
今回の記事では、筆者の方がルールに違反していたことは認めた上で、そのルールが妥当なものなのかどうかを問うているという形になっていますが、私はまずその前に、なぜそのルールができたのかを考えるべきだと思いました。理由もなくルールは勝手にできあがったりはしません。まず、コロナ禍の現在、模写ができるとしたら
・それが可能であり他の鑑賞者の妨げにならない程度の広い空間がある
・館や貸し出した館から模写の許可(権利関係の)を取れている
・床に座り込んだり長時間作品の前を専有しないマナーが守れる
・他の鑑賞者の動線を妨げて密を誘発しないこと
と、安全を確保するためにも最低でもこの4つを満たしていることが必要になるでしょう。「子供の学習意欲」はこれに優先しません。
ルールを作成するにあたっては、可能なことと不可能なことを分ける「条件」が必要で、その条件はすべて「理由」から起因するものであり、理由には必ず「優先順位」があります。そこを考えずして『このルールは子供の好奇心・探究心・学習意欲を削いでいる!』と言ってみても、共感を得るのは難しいでしょうし、現に猛烈に叩かれているわけです。
私もよく模写をしますので、この方の気持ちがわからないわけではありません。つい最近も共立女子大学博物館と弥生美術館で模写をしてきたばかりです。30秒くらいしたら場所を変え、人が近づいてきたら(あっ、もう書くの終わりましたんでぇ〜(^∀^))みたいな顔をしていったんボードを下ろします。これは「30秒したら場所を変えろ」「人が近づいたらいったん模写をやめろ」というルールがあるわけではありません。模写をするにあたっての私の中のマナーです。
でも、これがなかったらどうなるでしょうか。長時間、展示品の前をひとりじめして、他の鑑賞者の動線を妨げていたら。他の鑑賞者の邪魔になっていたら。最初は、他のお客様へのご配慮をお願いします、くらいで済むかもしれませんけど、それが続くようなら、おそらく模写のルールがつくられて遵守を求められるか、もしくは模写そのものが禁止されるでしょう。しかもそれは、私がやらかさなくても、他の誰かがやらかしても発動するのです。
■教育のためにできること
記事の筆者さんや、筆者さんを擁護する方々がほぼ例外なく口にしているのが、『海外の美術館では〜』という決まり文句です。海外と日本の美術館では規模の違いもありますし、考え方の違いもあるでしょう。ですがルールをつくる条件、その根底にある理由の第一にあるのが「安全性の確保」であることは世界共通です。例えばルーブル美術館あたりで、狭い展示室内で人がごった返す中、イーゼルを立てて模写したり、長時間ひとつの作品の前を占領することを許可するでしょうか。安全性確保の見地から言って、許可は出しません。(擁護派の方々はあたかも海外の美術館では自由に模写ができると考えていらっしゃる方が多いようですけれども、どんなところでも勝手に模写していいわけではありません。許可が必要な所もありますし、禁じている所もあります)
私は筆者の方の、本物を前にした感動を自分の手で書き留めたい子供の素直な気持ちを尊重したい気持ちはよくわかります。なぜなら私自身がそうだからです。しかし、そこを尊重するがあまり、館の定めたルールがなぜそう制定されたのか想像を巡らすことをすっ飛ばして「子供の好奇心・探究心・学習をそぐような運営やルールがまかり通っている」という結論に至ったのが残念でなりません。
さらに残念なのは、海外の美術館でできることがなぜ日本の美術館ではできないのか、そこを子供と、そして読者の方々といっしょに考える絶好の機会だったのに、わざわざ入口の禁止事項が書かれた立て看板の画像をアップしておいて『でもね、これは気づかないと思うよ』という文字通りの余計な一言を入れたり、『海外の美術館では〜』から始まる論調でそれ以上の思考を放棄したりしていることであり、子供の教育にかけるせっかくの熱意がこの記事を読んだ多くの人に色眼鏡で見られてしまっていることです。
この方の他の記事を読むと、そこまで感情的な文言は見受けられませんでしたので、より一層(ああ、子供の前で注意されて恥かかされたと思ってキレたんだな)という印象を与えてしまうのでしょう。
また、記事の中で、「混み合っていない時はその都度模写が可能かどうか臨機応変に監視員の裁量で判断することはできないのか」という論調が見られましたが、これははっきり言って無理です。監視員のお仕事は作品の安全と来館者の安全を守ることが第一義であり、ルールを都合よく曲げることではありませんし、何よりそれをすると「あのガキはよくて、なんでオレが駄目なんだ」とゴネる輩が必ず出てくるからです。どんな理由にせよ、ルールに違反することを見逃していたら、そこにつけこむ輩は必ずいます。
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気に入らない、自分の意見と相容れない意見やルールがあっても、いきなりその怒りを攻撃性に変えて、相手が間違っているとSNSで声高に叫ぶのではなく、まず何が理由でそういう意見やルールになっているのかを考えてみましょう。
スカート丈は何cm、靴下の色は白、といういかにも謎な校則とかであっても、「気に入らない=反発して校則を破る」ではなく、理由までさかのぼってはじめて「この理由は現代にそぐわないから変更を求める」という交渉ができるのです。それをせずに、気に入らない=間違っている=排除という一連の動きをすると、昨今クレームをつけまくって騒動を起こしている自称フェミニストの議員連盟となんら変わらないということになります。
ルールとマナーを守りつつ、それに疑義を差し挟むには。
ルールとマナーの中で、教育のためにできることはなんなのか。
このニュースはそのことについて再考するよい機会になりました。私自身も、自分の常識が世間の常識でないことを改めて肝に銘じ、慎まなければなりません。
最後になりましたが、私はこの筆者の方をおとしめたいわけではなく、けなしたいわけでもありません。子供の教育に真剣に向かい合う姿には、賛同できるからです。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、ごきげんよう。
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