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小説「着物でないとっ!」②


2 幸みどり


 最近、学長である幸みどりは良く眠れない。近頃、学院の周辺に住む人たちから、この辺りで見たことのない男が学院の話を尋ねて回っているということを聞かされていたが、昨日も、学院のごく近所の知人が、生徒について尋ねられたことを知らされて、いっそう落ち着かない心境となった。

 それでも生徒の前でうかない顔をするわけにもいかないので、学長室の鏡の前で笑顔をつくり階段を上った。造りが古くギシギシと音もする木製の階段であるが、レトロな雰囲気を感じることも出来る。

 門司和装学院は昭和四十年に設立された。その建物は、交易で賑わった門司港当時の繁栄を表すかのように木造ながらにおしゃれな二階建ての洋館の建物となっている。一階が事務室と応接室、二階が仕立て作業を行う作業部屋となっている。作業部屋は広く、三十畳ほどの板間となっている。二畳ほどの作業台が六台設置され、学院の生徒そして卒業生である職員が仕立て作業を行う。

「みなさん、おはようございます」
作業部屋に入りあいさつをする。既に、ゆきや諸田、他の生徒や従業員も準備を終えて作業台についている。
「幸先生、おはようございます」
 各作業台には、現在の学院の生徒が三名、そして学院の卒業生を含める従業員が五名の計八名が二名ずつ着席している。
 幸は近くの作業台に諸田と座っているゆきに目を向ける。この春から三年生になったゆきには、大事なお得意様からの注文を担当させていることもあり、彼女の仕事ぶりを気にしている。諸田を指導役につけているので心配はしていないが、ゆきは元気良さの反面、若さゆえの失敗もあり、単なる講師の立場だけでなく、母親のように心配もしている幸であった。

「ゆきちゃん。昨日も遅くなった?」
「遅くなったけど、全然平気です」

 ゆきは、先生に「飲みに行ったこと」を問われているのかと一瞬とまどったが、仕立てのこととも取れたので、あいまいな返事をした。確かにお酒が好きで、三か月程前に深酒のためにみんなに迷惑をかけた。そのため、最近はお酒の量をしっかり抑えて自己管理をしているのだが、先生の言葉をついお酒の話として考えてしまう。
 ちなみにゆきは、昨夜十時過ぎに帰宅した後、午前一時まで今日の作業の練習をしっかり頑張った。お客さんが実際に召す着物の仕立てを任せられたこともあり、最近は、一層の責任感をもって仕立ての作業に取り組んでいる。 

  門司和装学院は創立以来、和裁士を育成することを目的に独特な制度をとっている。端的に言えば、学校の授業において呉服屋などからの注文された着物の仕立てを生徒が手伝うことで、授業料が不要になるという仕組みだ。
 職人となるためにはより多くの仕立てを経験することで技術を高めていく必要があるが、授業だけでは十分な経験を積むことができない。そのため、最低限の実技を授業で教え、問屋から実際に注文された着物を仕立てることにより腕を磨いていく。

 責任者である学長の幸のチェックが最終的に行われ成果品として納品するが、学院では注文の大半を生徒が行うことで収入を得て生徒の学費をまかなっている。この仕組みは学院の創立時から行われていることであり、当時、家庭が貧しく子供たちを上の学校に通わせてあげられなかった家庭も多かった時代に、手に職をつけることができるということで多くの子供達が、この制度に救われてきたのである。日本が豊かな国となった今でも創立者の考えは学院で変わらずに踏襲されている。

  しかし、女性の着物に対する意識が低くなり、結婚式などでも洋服が一般的になることにより、着物の需要は少なくなり産業全体が縮小し、昭和の終わりには最大百名を超えていた学院の生徒数は激減する。事実、現在はゆきを含める生徒数は三名となり、幸は生徒数についてどう対処するかを悩んでいる。また、学院の建屋についても、老朽化が激しくなってきていることも課題であった。

 幸から、いくつかの連絡事項を伝えられた後、各自が自分の行程に合わせて持つ作業を始めた。着物の仕立ては呉服屋からの注文を請けて行うのが一般的である。お客さんが呉服屋で反物を選び、採寸された身体の寸法と一緒に和裁士が仕立てを行うこととなる。

 ゆきは今日から袖(そで)の仕立てを行う予定だ。仕立て作業の中で曲線に仕上げる唯一の箇所であり、きめ細やかな仕上げが求められる。
生地を作業台に置き、大きく息を吸い込みゆっくり吐いた。袖の丸みを模るための型紙をあて、ヘラで薄く線を引いていく。線を引いた後は手前から少しずつ小さな襞をつくり、袖の曲線を形作っていく。脇に置いた電気こてで折り目を強くつけ、固定する。少しずつ、少しずつ、襞を寄せていくことで折れ点が解らない袖の曲線が出来上がっていく。着物の中で袖は唯一の曲線を持つ部位だ。

「出来た!」

 今日は、練習以上に綺麗に仕上がったとゆきは思った。
「ねえさん、どうですか?」と、作業台の斜め向かいで作業をしている諸田に仕上げを見てもらう。

「いいよ。上手に出来てる。先生にみてもらいなさい」

ゆきはベテランの諸田の言葉に自信をもらった。

「先生、チェックお願いします」と隣の作業台の幸に声をかける。幸は、外観を確認した後に指でたくさん作られた襞をひとつひとつ押さえていく。襞(ひだ)の重なりが均等になっていなければ、そこだけが分厚く感じられる。

 ゆきは、幸が襞のチェックを入念に行っているのを後ろで、静かに待っていた。
「うん、よし」
幸がOKを出すときは、いつもこの言葉であった。

「ゆき、大分練習したでしょ。襞の重ね、上手に出来てるよ」

その言葉を聞き、笑おうとしたゆきであったが、思いもかけず目に熱いものが流れるのに気づいた。

「あれ? あれ?」

先生のねぎらいの言葉を聞いた瞬間に喜びと安堵の気持ちが混じった涙であった。

 幸は、そんなゆきの姿を見て、学院の生徒が少しずつ腕をあげていく過程をみることが出来る喜びを感じていた。入学してきたころは着物のことを全く知らなかった若い人が和裁の道を究めてゆく。幸が見ても、その袖の襞はとても大切に仕上げたことが指先で感じられるものであった。

つづく

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