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小説『着物でないとっ!』① 

プロローグ

「チリン、チリン」
 ハンドルのベルが商店街にこだまする。自転車が、少しずつ店の準備が始まったばかりの商店街を駆け抜けていく。アーケードになっているため、そのベル音は屋根とシャッターで仕切られた空間の中で一層大きく響きわたる。まるでお店の人々に「朝が来たので早く店を開けなさい」と鼓舞して回っているようだ。アーケード内はまだ薄暗いが、外の路地では朝陽が眩しい五月中旬の朝である。

「おばちゃん、おはよう!」
 蒲鉾屋の前で陳列の準備をしていた店主に自転車の上から声がかかる。
「あっ、ゆきちゃん、おはよ……」と、店主があいさつを返そうとした時には自転車の姿は既に小さい。最近は全盛期の活気を無くし当時の面影は無くなったが、過去の繁栄を証明するかのように広く長い商店街である。ゆうに二百メートルはあるその延長を一気に駆け抜け、出口で直角に向きを変えると、今度は丘陵の方へと向う。
 景色は一転し、樹木が立ち並ぶ緩い上りの坂道が続くが、学生時代に陸上部で鍛えた脚力は今も健在で、変速ギアの無い自転車でも速度が落ちることはない。

 自転車フロント部のかごには、彼女が作ったオリジナルの巾着袋が収められ、その袋には竹製の物差しや細長い鉄製の道具が袋に収まりきらずに飛び出している。いずれも彼女が今日の学校での作業の練習をするために、自宅のアパートに持ち帰ったものだ。

 この坂道を自転車で通い始めてから、既に二年が過ぎた。決して順風満帆な人生では無いが、今の生活は充実している。一人前になるには、もう少しだけ時間がかかるが、好きなことを見つけ、その目標に到達するためにはどんな苦労も乗り越える自信がある。山からは時折、強い風が吹きつけて来るが、彼女はその度にペダルを漕ぐ脚に力をこめて力強く登っていく。
 その自転車の姿はまるで、今から彼女と彼女が大好きな先生に降りかかる大きな試練を乗り越えていく力強い意志を象徴しているかのように見えた。

1 若松ゆき


 門司港は九州の玄関口にあたる港町であり、かつては日本の主要な外国航路の拠点のひとつであった。本州の下関との間にあった関門連絡船の発着地でもあり港湾関係の会社や旅行客で賑わいを見せていた。また、門司港駅は鹿児島本線の起点であるが、九州における鉄道の発祥の地として栄えた。

 しかし、昭和十七年に国鉄が日本で初めての海底トンネルとなる関門トンネルを開通させたことにより、門司港で鉄道と船を乗り継ぐ必要は無くなる。人の流れは変わり、乗用車の普及、本州と九州をつなぐ関門橋により高速道路で行き来が出来ることになったために門司港を経由する人は激減する。また、海外貿易も周囲の港に少しずつその地位を奪われて、最近では住民の高齢化や、自動車を主とした生活スタイルの変化のために地元の商店街も閑散としている。 
 
 最近こそ港に面した地区は、市の方針で門司港駅を中心としてレトロな建物を売り物に観光地として開発されたことで再び賑わいを見せるようになったが、地元の商店街までは観光客の足は伸びずにシャッターを閉めたままの店が目立つ。 

 若松ゆき。二十五歳。彼女が今、自転車で向かっているのは、丘陵の中腹にある門司和裁学院という和裁士の養成学校である。和裁士とは着物の仕立てを行う職人であり、ゆきは二年前から、その資格をとるための勉強をしている。
 今日は、いつもより早く到着した。駐輪場に自転車を停め鍵をかける。かごの巾着袋を持ち校内に入ろうとすると先輩である諸田が駐車場で車から荷物を取り出すところであった。

「おはようございます。姉さん、荷物持つの手伝いましょうか?」
「あっ、ゆきちゃん。おはよう、ごめんね。じゃ、悪いけど少しだけお願いしていい?」と二十近くも歳の離れたかわいい後輩に頼む。彼女が入学してから、わずか二年ちょっとのつきあいではあるが、諸田はもっと長いつきあいのようにも感じている。 
「これ、愛子さんに頼まれた分ですか?」
「そう、少し遅れてるんで私も家に持って帰ったの。あの人、悪いひとじゃないんだけど、納期にはやたらとうるさいからね」

 諸田は和裁士歴二十年を超えるベテランである。今年の夏で四十五歳を迎えるが、二人の娘を持つ主婦でもある。若い時にこの学院で和裁士の資格を取り、結婚して子育てをしながら着物の仕立てを自宅で続けている。
「でも、もう歳ね。夜は明かりが暗くて目が見えないのよ。最近、旦那の老眼鏡を時々借りるんだけどすっごく良く見えるのね~。そろそろ自分の眼鏡を買おうかって思うわ」
「そうなんですか? 確かに和裁士にとって目は大事ですもんね」
「ゆきちゃんの若さがうらやましいわ。私もあと十歳若けりゃね」と、諸田のいつもの口癖が出る。

「ところで、ゆきちゃん、昨日もBINGOに飲みに行ったでしょ?」
「えっ、どうしてですか?」
急に話が変わり、プライベートの話になったのでゆきは少し慌てた。
「そりゃ、お酒の臭いがこれだけすれば誰でもわかるわよ」
「ウソっ、ホントですか? そんなには飲んでなかったけどな~」ゆきは口に手をあてて自分の息を確かめてみる。
「あはは、嘘よ。ここまで匂うようだったら大変でしょ」
「もうっ! 姉さんはっ!」
「でも、飲んでたのは当たったわね。また、マスター目当てで行ったんでしょ!」諸田は話を聞き出したい核心に近づける。

「ち、違いますよ。私、あそこの枝豆のペペロンチーノ……姉さんも食べたことありますよね? 今嵌まってるんですよ。 これがビールとメチャメチャ合って美味しいんですよ」
ゆきは、慌てながらもまことしやかな理由で答えた。
「よかったら、今度一緒に行きましょうよ」と、諸田を飲みに誘うことで話をそらした。 

 喫茶BINGOはレトロ地区から少し離れたところにある喫茶店である。五年ほど前に出来たお店であるが観光客ではなく地元の人間が良く集まるお店であり、篠田というマスターとのおしゃべりが楽しくてゆきのお気に入りの店であった。最近はゆきが頻繁に飲み行っているということから、学院の中で「ゆきが篠田のことを好きなのではないか?」という話が噂されている。
 諸田は、自分を気兼ねなく誘ってくれるゆきに対し、自分の学生時代と比べて〝女性の意識も大きく変わった〟と思った。飲みの誘いは決して迷惑ではなかったが、女性の先輩としてのたしなみ、そして母親としての責任感から「子供達に一応訊いてからね」とゆきに慎重な返事をした。

「でも夜は暗いから帰り道はくれぐれも気をつけなさいよ。最近は変な人も多いからね」
「そうなんですよ。昨日はお店でもその話になったんですよ。最近、変な男の人を見かけるようになったって。マスターが……」
「変な人?」

 一般論で注意をしたつもりだった諸田だったが、ゆきから思いがけず具体的な不審者の話が返ってきたために、逆に自分の娘たちのことが気になり、ゆきに詳しく尋ねた。

「それが、十日くらい前からこの近辺を歩いて回っているみたいで、近所のひとたちに声をかけていたみたいですよ。格好もスーツじゃなくて……仕事しているようでも無いみたいなんですよ。実際に、ナッチが見かけたらしいんですよ」
 ゆきがナッチと呼ぶのは、一年ほど前からBINGOで働いている少し風変わりなお姉系のバイトのことである。
「なに、それ? お年寄りを騙して回っているんじゃないの? 気持ち悪いね」
 諸田は、もう少し詳しく聞きたかったが、そこまでの時間は二人には無かった。始業にはまだ時間がかなりあるが、作業部屋の準備に時間がかかるためであった。

「また後でその話、ゆっくり聞かせてちょうだい」
諸田は持ち帰った生地や自分の和裁道具を持てるだけ持って建物へと入って行った。ゆきも、その後に続いた。

    ゆきが和裁士を目指すために、それまでに勤めた鉄道会社を辞めてからおよそ三年が経つ。地元の北九州の短大を卒業してから、接客や旅行に興味があったこともあり、鉄道会社に入社した。地元の小倉駅の窓口で切符を販売の仕事をしていたが、大きな駅での業務は多くのお客さんを少しでも速くさばくことだけが求められ、彼女が入社前に抱いていた楽しさを演出するものとは大きく異なっていた。
 ゆきが会社を辞めるきっかけになったのは、三年前に行われた駅での着物イベントでの出逢いであった。
 
 小倉駅は全国の駅の中でも珍しい構造をしている。駅建物は高層ビルの造りになっているが、その中央部に大きな空間を設け、市営のモノレールがビルの三階にあたる部分に乗り込んでいる。下から見上げると、まるで松本零時の漫画「銀河鉄道999」に描かれる世界のようである。また、駅前の歩行者デッキからコンコースに登るための幅広い大階段が駅の正面に配置され特徴のある景観となっている。

                *

 着物イベントは、その大階段で年に一度、北九州で着物を愛好する人々が集い記念写真を撮るというものであった。日頃はめったにみかけない着物姿の男女が遠くからも集まり、大階段を埋め尽くすその景色は圧巻である。
 記念写真の撮影が終わると参加者は、解散し三々五々に小倉の街に流れて行く。ゆきはイベント当日にコンコースからの改札口でお客様の案内をしていたが、イベントに参加した若い女性から声をかけられた。
「すいません、広島から来たのですが、この近くにどこか観光出来るところはないですか?」

 ゆきは、若いその女性が身に着けていた着物に目が引き付けられた。花柄などの大きな文様も無いが、逆に派手ではなく、三十歳くらいに見える彼女が素敵に見えた。ゆきは、少し考えてから彼女に答えた。
「そうですね。やはり門司港に行かれた方が景色も良くて、最近駅の近くにカフェもたくさん出来てますので、楽しめると思います。私も地元が門司港ですが、レトロな建物が多くて着物で記念撮影される方も多いですよ。着物とてもお似合いですね」
「そう、ありがとう。さっそく今から行ってみますね」
女性は嬉しそうにゆきに答え、そして尋ねた。
「あなたも着物を召したりされますか?」
その唐突な質問に、ゆきは少しとまどったが、
「えっ、着物ですか?せいぜい成人式で振袖をレンタルしたくらいですね。浴衣も昔は関門の花火大会とかで着てたんですけど、最近はなかなか着ることも無くなりましたね」
「私も最近になって着物を着るようになったんだけど、これ小紋っていって普段着として着れるのよ」
「コモンですか? 落ち着いた感じで素敵な着物ですね」
「ありがとう。あなたもかわいいからきっと似合うと思うわよ。試してみたら」
「は、はい。ありがとうございます」
洋服は好きだったが、ゆきは着物姿の自分のことは考えたことがなかった。そのせいか、その女性の言葉がとても新鮮に心に響いた。


第二章につづく


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