【育児日記】善光寺で「祈り」について考えてみた
こんにちは!エルザスです。
先日、ばあばの実家へ行った際、さらに足をのばして長野の善光寺へ行きました。
ちょうど七五三の時期で、華やかに着飾った子どもたちがたくさんいました。
それを横目に本堂へお参り。
すると、案内の係の人が
「もうすぐ七五三の法要で御開帳があります。見学になる方はこちらへどうぞ」
と声をかけてくれました。
御開帳って、7年に一度のあの御開帳?
そう思いつつ、言われるがまま畳の広間に腰をおろすと、まもなく読経が始まりました。
私たちが座った広間(内陣と言います)より更に奥まった場所(内々陣と言います)に、法要参加者の皆さんが座っています。
うちの子は本堂内部をあちこち見渡して、何かを感じ取っている様子。
中でも内陣に面して鎮座している大きな弥勒菩薩像が気に入ったようで、じっと見上げていました。
こういう場所で騒がず神妙にしていられて偉い!🥰🥰🥰
読経を聞いていると、
「施主〇〇の子△△、令和元年〇〇月◯日生まれ五歳、健全育成祈願うんたらかんたら」
というようなフレーズが何回も繰り返されているのに気が付きました。
七五三の法要を申し込んだお子さん、一人一人についてしっかりとお祈りされているのがわかります。
子どもの健全育成をひたすらに願う親心。
それをおだやかに聞いてくださる仏の心。
なんだか無性に泣けてきました……😭
子育てをするようになって、「親心」というものがわかってきたからでしょう。
「この子が健康に育ってくれるなら、自分の身はどうなってもいい。だからどうかこの子のことをお願いします」
法要に臨んでいる親御さんは、きっとそんなことを思って一生懸命に祈っています。私はそれに深く共感し、涙が自然と溢れてきたのでした。
そしてひとつ悟りました。
真剣で純粋な気持ちを表現するために、人には「祈り」が必要なんだな、と。
だからこの「祈り」の場を与えてくれる善光寺が、いや、寺だけでなく神社でも教会でも同じなのですが、とにかく「祈り」の場を与えてくれるものが、すごくありがたい存在に思えたのです。
初めて宗教の意義を知った、というのが実感でした。
無宗教な私ですが、それでも何かに祈らずにはいられない時はあります。それに応えてくれるのが宗教であり、宗教が用意してくれるお寺などの場所なんですね。
【ちょっと雑学①】
「人は何かに祈らずにはいられない」というのは古今東西同じらしく、フランス革命期のパリでは「理性の崇拝」というものが登場しました。
絶対王政を倒した革命政府は、旧体制を象徴するカトリック教会を抑え、より合理的で啓蒙的な社会へ変革することを目指しました。
そのためカトリックではなく「理性」や「科学」を拠り所とする新しい信仰を確立しようとしたのです。
「理性の崇拝」の実施にあたって、フランス各地の教会は「理性の寺院」へと改装され、礼拝の対象は神ではなく理性そのものとなりました。特に有名な儀式のひとつが、パリのノートルダム大聖堂で行われるようになった「理性の女神」への礼拝です。
そこでは「理性」の象徴として「理性の女神」に扮した女性が登場し、彼女を讃えることで「理性」を崇拝する姿勢を示すこととされました。
ただ、結局「理性の崇拝」は短命に終わります。伝統的な信仰の仕方に慣れ親しんだ人々の反発を招いたからです。
革命政府は人々の心理をわかっていなかった、と言えそうです。ただ面白いのは、革命政府は国民に「無信仰になれ」とまでは言わなかったところです。
カトリックは排除するが、人々には祈るべき「何か」が必要だということは認識していたわけですね。
【ちょっと雑学②】
善光寺の「御開帳」。実は複数の意味で使われています。本来の「御開帳」は、7年に一度行われる盛大なものです。
つまり、7年に一度、前立本尊が公開されるのがいわゆる有名な「御開帳」です。
なお、真の本尊は絶対秘仏なので「御開帳」でも公開されることはありません。
さて、今回私が出くわした「御開帳」は、これとは別のものでした。
つまり、私を案内してくれた係の方は、「法要の際に戸帳が上がり瑠璃壇を見ることができる」のを「御開帳」と表現していたわけです。
七五三の法要で感動したことをnoteの記事にしよう、と思ったことがきっかけで、御開帳について色々と調べて詳しくなることができました。
アウトプットはインプットを促してくれますねぇ〜。書くのって本当に大事です。
ではまた!