「もういいよ、ササ美さん」(3)
「もしもーし。大丈夫かしら?」
遠くで誰かの声がする。
目を開けると、覗き込んでいた玉ねぎ嬢が眼前に現れ、驚いたササ美さんは鮮魚のように跳ねた。
玉ねぎ嬢は「定例肉会議」の重要オブザーバーのため、寒い中ミンクの白いコートと帽子で冷蔵庫に来ていた。こちらの話で登場する玉ねぎ嬢はエシャロットと付き合っていないが、格好は同じ、というところが興味深い(注:別ストーリーで登場してるため)。玉ねぎは玉ねぎ。じゃがいもと同様、寒いのはやはり苦手だ。
ササ美さんは、本能的に「この人にはちょっと話してもいいんじゃないかな」と思った。肉会議のオブザーバーを務めるぐらいだ。肉であるなら玉ねぎに親近感を感じてもなんらおかしくはない。
ササ美さんは、ポツポツとササ男さんの事を話し始めた。そして、つい先ほど感じた「残虐筋事件」の話をした時には、体の震えが止まらなくなっていた。「うんうん」と黙って聞いていた玉ねぎ嬢が、口を開いた。
ワカナさん?
その名はどこかで聞いた事がある。そうだ、思い出した。ササ男さんの話だ。
サキさんはnoteというSNSを使っていて、娘の弁当やら自分のリモートワーク時のランチとかをアップする事があるのだという。もちろん、平野レミばりの豪快さだ。noteとやらの、食ジャンルで知られていることなどなく、あくまでサキさんは、自分の内面のエロスやワインの話を徒然に書いてるだけ。食のnoterではない。だから、珍しくササミの話が出て来たときだけ、ササ男さんはササ美さんに話していたのだ。
ワカナさんが健康診断を意識してか、ササミを購入し、「いい調理方法がないか」と問いかける投稿をしたところ、「大好きなササミということなら!」とサキさんはしゃしゃり出た。食分野では何の影響力もないし、メンツを見ても場違いにも関わらず、空気を読まないサキさんが、嬉々として「ササミのフライ風」を紹介していたと。
「ワカナさん、作ってくれるといいよね」
そう、ササ男さんはおもしろそうに話していたのだ。そう、その「ワカナさん」だ。
一体、何の因縁だろう。
愛するササミ達が遠く離れても、コミュニケーションをとるように、人間はsnsというツールを使って、一度も会ったこともない人たちと夜な夜な交流している。技術の進歩とは、元々備え持つ能力を退化させる。誰もができるはずの量子レベルのコミュニケーションは、一部の双子のような関係性でしか成り立たず、コミュニケーションツールなしでは生きていけない愚かな生き物。それが人間。
何れにしても、ササ美さんにとってワカナさんは「夫を残虐に殺した人から伝授された調理方法を試そうとしている人」でしかない。そんな人と出会う確率はそう高くないはずなのにー。これを因縁と呼ばず、何と表現できようか。ササ美さんは運命を呪った。
玉ねぎさんは、「丁寧に料理をする人」とワカナさんを表現していた。それは唯一のササ美さんの救いだったが、仮にも「ササミ好き」と知られるサキさんがあんなに雑だったということもあるし、その評価を簡単に信じるわけにはいかない。ササ美さんはぎゅっと筋の周りを硬くした。人間なんて信じてなるものか。誰もが「どうせお腹に入れば、なんでも同じ」と思ってるに違いない。その日は朝まで眠ることができなかった。
翌日。
ワカナさんはササ美さんを、ゆっくりとトレイから取り出し、ササ美さんと子供達をまな板に並べた。無論、サキさんと同じではなく、牛乳パックはまな板に敷かれてはいなかったし、キッチンに慌ただしさは纏っていなかった。ただ、包丁を見ると、ササ男さんを残忍に切り裂いた道具を連想させ、怒りと恐怖で震えた。
しかし、その料理風景は、ササ男さんを通じて見た「映像」とは全く違うものだった。ワカナさんは、愛おしい人を初めて愛撫するかのように、そっと体の輪郭を撫でていった。フォークや包丁で刺さすわけでもなく、じっくりと味わうように、ただただ撫でるだけだった。
ササ美さんの頭の中はめちゃくちゃだった。押し寄せる快楽と、この先を無意識に期待する感情と、それらを必死で抑える理性が三つ巴になって戦っていた。
自分を許せなかった。いかに遠くとも、夫を殺した人と関係がある人だ、何をされるかわからない。なのに、なのに。本能が理性と真逆のことを囁く。
ワカナさんは、包丁をそっと置くと、改めてフォークを取り出し、背の部分でゆっくりと、慎重に筋を取り始めた。額から汗が滲んでいる。成功率が極めて低い手術のように、ゆっくりと筋をとっていく。それと同時に、ササ美さんには今まで味わったことのない快感の波が次第に押し寄せて来た。
そして。包丁でゆっくりと、ササ美さんの内部へ侵入しようとしたその時、ササ美さんの理性が戻った。
「ダメ!!私の心はまだ開けられない!!」
ぎゅっと硬く、身を締めた。無論、ササミが抵抗したところで、刃物を持った人間にかなうはずもない。むしろ、硬くすることで、さきさんのように無理やり、ボロ雑巾にされても、おかしくはない。ただ、精一杯、力を込めた。ササミにだって、プライドがあるのだ。
なのに。
ワカナさんは、そんなササ美さんの様子を見て、無理強いをしなかった。そして、身と心の扉を閉じたその瞬間、大葉をそっと挟み、立ち去った。まるで訪問営業マンが、パンフレットだけをおいて、帰るように。拍子が抜けたササ美さんは呟いた。
え? それだけでいいの?
to be continued.
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