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楽曲レビュー MOROHA「命の不始末」

“「いっそ殺せ!」なんて呟く。だけど本当に危険が迫ったとしたら恐らく命乞いする自分の姿が目に浮かぶ、"

MOROHAの最新アルバム「V」で紡がれた言葉、とりわけこの「命の不始末」という曲の殺傷能力は、もう下手な化学兵器を超えてきた。そろそろ国連の偉い人たちは、SDGsがうんたらと講釈を垂れるのをやめて、ジュネーブ条約を改定してこの破壊力満点の代物の脅威をいかに低減すべきか、真剣に検討した方が良いのではないか。

MOROHA「命の不始末」
https://www.youtube.com/watch?v=R3pCHVO-pgA

この「命の不始末」はYouTubeで600万回以上再生された楽曲「tomorrow」の続編である。

MOROHA「tomorrow」

https://www.youtube.com/watch?v=AanfKNatAqk

東出昌大主演のこのPV、そしてこの曲に初めて触れた時の衝撃は、未だに忘れられない。

「tomorrow」の主人公は、すれ違う野球少年に夢と希望に溢れていた幼き日の自分を重ねつつ、うだつの上がらないサラリーマンに甘んじる現在地を受け入れ、前に進もうとする平凡な男だ。

人が不本意な境遇に置かれるとき、そこには様々な変数が絡む。もちろん一義的には本人の能力不足と誤った行動の帰結なのだろうが、周囲の環境、本人の遺伝的要素、タイミング等、構造的に捉えようとすればきりがない。実際、そこにもある程度の「真実」は見いだせるし、もっともらしい論理で正当化することもできるだろう。何せ「責任という虚構」という概念を提唱する哲学者もいるくらいだ。かくいう筆者も何もかもを安易に自己責任論で片付けるネオリベ的な発想には嫌悪感を覚えるし、それを政治理念に掲げるような政党は国益を著しく損ねるとすら思う。

しかし、この曲で言葉を紡ぐMC・アフロはそのような甘えを一切許容しない。「どの面下げてどこへ向かうの?結果的には嘘つきじゃねえの?自ら選んで嘘にしたんだろ?」と容赦なく切り捨てる。

この曲を聞いた時、高校の倫理で学んだサルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を思い出した。当時筆者は、「なんやこいつ、ただの厨二で草」と冷笑しつつも、胸に何ともいえない不気味さが引っかかっていた。それが十数年を経て再び自分の前に立ちはだかった。

否、「tomorrow」が筆者に与えたのは不気味さや違和感なんてものではなく、鼻っ柱を思い切り殴られたような痛みだった。そして、首根っこをがっしりと掴まれ、思わず閉じた目を無理やりこじ開けられた。

「よく見ろ。これがお前だ。お前の惨めな現在地、22歳で社内ニートになって、28歳でフリーターになって、戦略もなく衝動と見栄でその場しのぎの意思決定を積み重ねた結果、Linked Inのページに並ぶクソみたいな職歴、語学のスコア以外何も証明するものがないスキル、何もかも!全部!お前の選択の帰結なんだ!!」と耳元で恫喝されたように感じた。

それでも、アフロは最後には一言「それでも、その面下げて歩いて行けよ。最後は嘘になるなよ。」と包み込んで、背中をそっと押してくれる。

それからというもの、筆者はこの曲の言葉を心の中に大切にしまって、事あるごとに唱えて、MOROHAの楽曲を毎朝毎晩シャワーを浴びながら爆音で流して生きてきた。

自分の弱さ、過ち、浅はかさ、醜さ、クズさを受け入れ、正面から向き合い、隠さない事。その上で自分の人生を肯定して、一歩でも、半歩でも、歩けないなら這ってでも前進してゆく事。

その積み重ねだけが、彼らの代表曲「革命」の言葉を借りると「半径0mの世界(無力な自分自身と、その影響力の及ぶ自分の周囲)」を変えていくことだけが、人生をより豊かにしてくれることを教えてもらった。

こうして書き連ねてみればどこかの怪しいビジネス書に書いてありそうなことだが、それが腑に落ち、「自分に起きたあらゆる不利益」を全て自分の責任として受け入れ、歩んでいく覚悟をもたらしてくれたのは紛れもなくMOROHAだ。

そんな人生観が覆った「tomorrow」の続編、未来への覚悟と一縷の希望をもたらしてくれた楽曲へのアンサーが、「命の不始末」という何とも陰鬱で重たいタイトル。

恐る恐る再生ボタンを押すと、「tomorow」のPVで葛藤を抱えながらも「tomorrow=明日」に向けて歩みを進めたはずの東出昌大演じる主人公、というか今回は東出本人が、世間からのバッシングに耐えかねて山にこもり、動物を狩り、命を奪って生きる事、その罪の意識、そして自身と一層向き合い、時には酒に溺れつつも内省を深めてゆく姿が映されていた。

(芸能関係のニュースに疎いもので、その間彼がプライベートで色々やらかして干されていたことは後になって知った)

なぜ、「tomorrow」の帰結が「命の不始末」でないといけないのか?

なぜ、「tomorrow」で東出の演じたうだつの上がらないリーマンは過去と決別して歩みを進めたはずなのに、今なおこうして「自業自得の闇に焼かれながら眠る」ことを余儀なくされるのか?

なぜ、今もなお「品のない商売 小汚い生涯」と後ろ指を指されなくてはならないのか?

困惑しつつも、それを何故かすんなりと受け入れている自分もいた。

筆者は以前から、幼少期から「普通の事を当たり前にやる」ができない自分をどうにか変えたかった。自分を受け入れる事が到底不可能に思えたからこそ、向いてもいない民間企業、それも営業職を志した。ところがいざ入ってみると筆者には「受け入れられない自分を変える」胆力すらもなかった。つまり「先天的な要因で生きづらさを抱えるアスペ(ASD)グレーゾーンの自分」「教養も知性も感じない低俗な会話ばかり飛び交う営業所」「不遇にもそこに配属された国立大卒留学経験ありの自分」を免罪符にして、自分の「変えられる物」と「変えられない物」を見極めて言語化する事、前者を追及して戦略的に人生を改善していく努力を放棄していたのだ。

それも、無自覚に、さも被害者のような顔をして。

その後更にキャリアでも私生活でも痛い目に遭い続け、いよいよ自身の根底から見つめなおさないといけないところまで追い詰められた事、MOROHAとamazarashiの楽曲、そのベースにある(と筆者が勝手に解釈している)実存主義哲学と出会った事、そして何より学生時代にそれなりに熱量を持って学んでいたことを活かせる職を得た事、諸々の好条件が重なったことで、30歳目前にして、ようやく「”当たり前”への執着」を捨てる覚悟を決め、今もその途上にある。

人道支援という高潔に見える、そして実際高潔な人が多い仕事に従事していると、「素晴らしい志ですね」等と言われることがあるが、恐らく筆者にはそんなものはほとんどない。

淡水でしか泳げない魚が何かの事故でヘドロの海に放流され、否、自分の特性を見極めないまま自ら飛び込んだら案の定死にかけたので、とりあえず最低限エラ呼吸をして生きていける場所を目指して泳いでいたらここにたどり着いていただけだ。

命がけでガザから退避する同胞から数千ドルもの大金をせしめるエジプトの悪徳密航業者と、未曽有の人道危機の「おかげで」地上波テレビに何度も出演して、時には外部で講演もさせてもらって、(傍目には)自分よりもよほど公私ともに充実した成功ルートを歩んでいる同級生から久しぶりに連絡をもらったり、チヤホヤされたりして自分の小さな承認欲求を満たして「やりがい」などと嘯いている筆者の違いはどの程度のものなのだろう。ふとした時にそんなことを思う。

勿論人に問われたら「彼らはエゴイスト、私は人道主義者、紛れもない別物だ」とあの手この手で自己弁護するし、ガザで不当な暴力にさらされる人、その中で今も奮闘する仲間達のために何かしたいという気持ちにも嘘はないが、仮にそうだとしてその境界線は何なのだろう。

どんな世界に行っても、「自業自得」の業を背負って「小汚い生涯」を生きることからは逃れられない、それがこの楽曲のメッセージなのではないか。

MOROHAが「tomorrow」で最後に指南した「それでも、そのツラを下げて歩く」とは、決して道のど真ん中を格好をつけて堂々と歩くということではない。時に人様に見せられないような醜さ、浅はかさを抱え、時にはそれを恥じらいながらも、最後には開き直って前に進んでいくことなのだ。

そのことの解像度を一段と上げたのが、この「命の不始末」で描かれた「おめおめと生きる」ということなのではないか。

「お前が今までうまく取り繕っていた恥部が、再び白日の下に晒された。それでも自分の人生を肯定して、平然と恥知らずの顔をして歩みを進めていく。お前にはその勇気があるのか?」

つまり「命の不始末」は、「tomorrow」でやむにやまれず決めたはずの覚悟を、一段強いレベルで聴き手に迫る踏み絵なのではないだろうか。

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