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雑感記録(240)

【木村伊兵衛の写真に酔う】


今日は東京都写真美術館へ行ってきた。

以前、友人から木村伊兵衛展がやっているとの情報を教えて貰い、早速行ってきた訳だ。これがまた凄く良かった。

木村伊兵衛の記録については過去の記録でも延々と書いているので書くことはあまり無いかなあとも思ったんだけれども、どうもそれでも書き足りないというか、「これで果たして足りているのか?」と若干の危機感というか、「好きなものを語りつくせていない」という様などことない消化不良感に見舞われた。しかし、木村伊兵衛について事あるごとに書いてもこうして再び書き出してしまっているのだから、恐らく延々と書き続けるのだろう。好きなものを語る、語り続けるということはそういった消化不良感との闘いでもある。

さて、木村伊兵衛について語る前に、この東京都写真美術館への行程を少しばかし語ってみたい。


まず以て美術館に着くまでに様々な驚きに見舞われた。第1に今日はやたら暑かった。昨日とは打って変わって気温がおかしい。ただスマホの天気予報で「今日は暑い」と知っていたのでそれなりに薄着で外へ出たのだが、僕の予想を裏切り暑い。歩くごとにじわりじわりと背中に汗が湧くのが分かる。その感覚がどうも居心地が悪かった。しかし、既に自身の最寄駅である神楽坂駅までほんの少しという所まで来てしまっており、今更引き返すのも阿保らしかった。それに電車での移動が主だからそんなに外を歩きはしないだろうと、そのまま電車に乗ってしまった。

電車は当然冷房が効いているのだから幾分かは外より涼しい。それに匂いは最悪だが、地下鉄特有の風がホームを伝って階段へとのし上がって来る。匂いを気にしなければそこそこ快適だ。雨の日だったら最悪だが、幸いにも今日は快晴である。駅の改札を潜り、電車が来るのを待つ。東京の電車は凄い。数分も待たずして電車が来る。いや、本当にこれには頭が上がらない。

休日は平日と打って変わって、乗車している人が少ない。当たり前と言えば当たり前だが、それでも悠々自適に座れることは有難いことだ。僕は電車に乗り、リュックサックから木村伊兵衛の『対談・写真この50年』を読み始める。これは先日たまたま昼休みに例の如く煙草を蒸かして戻って、写真コーナーを眺めている時に見つけた木村伊兵衛の対談集である。読んでみると技術的なというか、カメラの仕組みやら歴史やらそういったものが中心に編まれていて、それはそれで面白いが、写真について門外漢の僕は置いてきぼりを喰らってしまっている。だが、木村伊兵衛の語り口が凄く優しいという感じで愉しく読んでいる。

神楽坂から高田馬場までは短い。本当は神楽坂から茅場町まで出て日比谷線で恵比寿に向かえば良かった。そうすれば時間は掛かるがある程度の読書時間は確保出来た。だが、休日なのだからゆっくりしたい。そういう訳で高田馬場から山手線へ乗るという選択肢を取った。高田馬場に着くと人がわんさか居る。JR線はいつも混雑している。僕は地下鉄ユーザーなのでそれに慣れてしまっているということもあるだろう。地下鉄に慣れてしまうとJR線の混雑さには少しばかり驚いてしまう。

高田馬場から内回りで恵比寿へ向かう。何とか座れたので再び木村伊兵衛の対談集を読み始める。しばらくして、原宿から電車が出て渋谷駅の手前でそれは起きた。これが第2の驚きである。電車がいきなり急停車し、しかも電車の電源というのか、電気や空調、モニターなどが全て消えた。しかしここが日本というものなのか、そんな状況でも声を上げず静かに乗っている。そして面白いことに皆が一斉にスマホを出しいじり始める。何だかその光景を目の当たりにして僕は思わず笑いだしてしまいそうだった。皆が皆手元の機会にそれも同じタイミングで同じ姿勢になる。

そんな中で前に座っている2人の女性の声が聞こえる。話を聞くところによれば、どうやらこれから何かしらの試験があるらしく、間に合わなかったらどうしようという様な内容であった。この時に僕は「ああ、僕は余裕を持って電車に乗って良かったな」と思った。実は美術館の開館時間は10:00からであり、恐らく駅から向かう際に迷子になるだろうと予想して9:45ぐらいに恵比寿に着く電車に乗った。実際5分の遅延だった訳だが全然僕には問題なかった。こういう時、早め早めの行動というのは大切だなと気付かされる。

そんな訳で予定時刻の5分遅れで恵比寿に着いた。しかし、僕は恵比寿に降り立つのは初めてである。本当に右も左も分からない状態である。とりあえず地図を見て進んで行くがよく分からない。事前に何となくここっぽいというのは調べていたが、具体的な道順などは把握していなかった。ここで僕の散歩スキルが発動する。「歩いていれば着くだろう」という心持で適当に歩いた。それで本当にどうにかなった。恵比寿ガーデンプレイスってここなんだな…と思っていたら発見した。

だが、僕は2階の入り口から入ってしまった。入場券とかどこで買うんだろうとミュージアムショップを横切り、受付に行ったら「受付は1回になります」と言われてしまった。初めて来た場所だからしょうがないなと思いつつも、やはりどうもこういう時、少しばかし恥ずかしくなってしまう。それで階段で1階へ降りて受付を済ませる。受付のお姉さんは丁寧で木村伊兵衛展と同時にやっているものとセットの入場券を買うとお得ですと教えてくれた。だが僕のモードは木村伊兵衛に全振りだったので「木村伊兵衛展だけの入場券で大丈夫です。ありがとうございます。」と言いお金を払う。するとお姉さんが「荷物とか…」と言いかけたので「あ、ロッカーにきちんと入れていきますね。」と答えたら凄くニコニコして「ありがとうございます」と言われた。いやいや、むしろこちらがありがとうなんだが。

ロッカーのある場所に着き、荷物を入れていく。しかし、暑い!とにかく暑い!脱げるものはここで全て脱いでロッカーの中に突っ込もうと思い、とりあえず荷物を持ったままトイレに向かい、少し着替えて再びロッカーへと戻る。脱いだ物や荷物をロッカーに詰めていく。そうして半券とリーフレットを持って身軽な格好で展示室へと向かって行く。

いよいよ、ここから木村伊兵衛の展示だ。胸が高鳴る。


さて、ここから書いていく訳だが、過去の記録で主だったものを。

実際に展示を見ていく中で直感として感じられたのは、「木村伊兵衛の人物写真は見れる」ということである。これについて過去の記録でもちょこちょこ書いている訳だが、僕は絵画にしても写真にしてもどうも人物画というのが苦手である。それは何と言うか、圧迫感とでも言えばいいのだろうか。言い方は非常に悪くなってしまう訳だが、人の顔を見て何が面白いんだという所が正直なところだ。勿論、美しいと感じることは当然にある訳だが、あまりピンと来ない。

ところが、木村伊兵衛の人物写真を見ても違和感など無く、むしろ荘厳さというか美しさを感じる。それでどうしてだろうなと考えながら見て、ふと気づいたことがあった。それはカメラの目線と人の目線がズレているという点である。勿論、被写体がカメラ目線で写っている作品もある訳だが、それでも被写体がカメラを意識していないという作品が非常に多い気がする。どことなく視線が逸れている。この小さな逸脱が僕はポイントだと思った。

木村伊兵衛の写真は何と言うか、本当に日常の一瞬というかそれを綺麗に切り取っていると思う。文士シリーズなどの写真は置いておくとしても、その他の写真は言ってしまえば「日常のワンシーン」そのものである。だからこそ被写体の視線というものは逸れている。それは意図して逸らされているのではなく、自然な風景として見ていない、カメラがあることを意識していないということである訳だ。これが僕が個人的に思う木村伊兵衛の写真の魅力の1つである。

僕等は例えば中学とか高校とかの卒業写真なんかを思い出してもらうと想像しやすいのだが、カメラマンが「こっち向いて。レンズ見て。」と被写体である僕等に言う。それで出来上がった写真を見ると、これは当然である訳だが正面を向きカメラ目線な訳だ。だからこそ余計に変な顔に僕等としても見えてしまう訳だし、何だかぎこちない人工的な表情をして映し出されてしまっている。証明写真の類もこれと同じだろう。とにかく「顔が分かればいい」という目的の元に撮影される。しかし、卒業写真なんかは特に皆の顔写真がいくらズラッと並んでいても、それを名前とセットで見て初めて認識できる。要するに僕等はカメラを意識した写真よりも日常の風景での彼らの表情の方が記憶に残っているし、それが自然なのだからそちらを沢山載せる方が本来的な意味では正しいのではないかと思われる。

それで木村伊兵衛の写真の話に戻る訳だけれども、やっぱり皆悉くカメラに目が向いていない。レンズから逸脱した所にそれは存在している。そのお陰で自然に周囲の風景にも目が行く。つまり人物が「人物」としてそこに在るのではなくて、自然の一部としてそこに在る。これが!木村伊兵衛の写真の魅力!だと思う!

自然と一体化している。

僕等は普段生きていて結構忘れがちなことなんだと思う。僕等は当たり前のように生きて、日々仕事やあらゆる物事に忙殺されながら生きている。今は木村伊兵衛が写真を撮影していた頃よりも、もっと文明が発達してインターネットやSNSなどの発達によって考えなければならないことが日々増加している。僕等はあらゆる高度な文明によって、それ無しでは物事を考えられないような生き方に変容している。だが、元々僕等人間という生き物は自然というか、根底にそういった本能として原初的な羨望みたいな物があるのだと思う。そういうことの大切さを木村伊兵衛の写真はいつも教えてくれる。人間は人間という自然である。

僕は特にパリの写真が好きだ。街の景色も綺麗なのだが、そこに写る人物たちの容貌が素晴らしく美しい。あれは完全に人間が景色である。人間が人間としての本来あるべき姿というと過言だが、しかしその風景との一体化が凄まじく美しい。人間のあるべき姿が木村伊兵衛の写真にはある。それをさらに強烈にしたのがパリに於ける写真だと僕は勝手に思っている。

さらに僕が好きな所は「適度な鮮明さ」である。人物写真を撮影するにしてもそうだが、余りにもハッキリしている写真は見ていてしんどい。鮮明に映っている写真を見ると疲れてしまう。それは細部までハッキリと見えてしまうが故に気になる点が多く出てくる。例えばその人の黒子や皺などあるいは表情など気になってしまう。だが、そればかりではその人物としての陰翳が無いような気がして面白くない。

しばしば、人間が見ているような解像度で写真は撮られるべきだみたいな風潮があるように思われる。実際に人間の目で今それを見ているという様な同一性とでも言うのか。それが重要であるみたいな感じだ。でも、そもそも写真で撮影するということは完璧な人間の眼ではないということはある程度了解の上で撮られる訳であって、そこがある意味でカメラで撮ることの醍醐味なのではないかと素人である僕は感じてしまう。そうして根本的な問題。「どうして人間の眼で見るように被写体が写されなければならないのか?」ということを僕は考えてしまう。

機械を通している訳だから、少なくともそれが人間の眼として撮影されることは難しい。だから僕は写真を見始めて凄く感じることなんだけれども、カメラで撮影する=人間の眼で見る=同一性を持たせるって言うことがあまりにも傲慢な気がしてならない。どうもカメラというのは人間本位に出来ている産物なのだなと改めて思う。それはそれで技術的な側面から言えば素晴らしいことではあるのだろうけれども、でもそこに僕等の自然は本当に存在するのだろうか。

木村伊兵衛の写真はそう言うところで適度な距離感が保たれているような気がするのである。勿論、木村伊兵衛の写真は鮮明な作品がそれなりにある訳だ。だが、カメラとの距離感とでも言えばいいのか、「これはカメラで撮影しているんだぞ!」というのが分かる。それがあるからこそ自然がより自然として屹立しているのだと僕には思われて仕方がない。極限まで行くと森山大道や中平卓馬のような写真に行きつく訳だが、それも物凄く好きである。カメラという存在も含めて自然が、つまり撮影者も含めてそこに混然一体とした自然が展開される。そのバランスが非常に美しいのが木村伊兵衛の写真だと思う訳だ。

森山大道とか中平卓馬などは木村伊兵衛ほどのバランス感覚はないと思う。彼らの写真は圧倒的に「俺様が撮っている。俺も作品だ!」感が強い。それもそれで面白いが、主張が強くていけない。やはり適度な距離感やバランスというのは大切なことなのかもしれないなと思ってみたりする。


そんなこんなで写真展を愉しんだ訳だ。だが、やはり美術館だ。馬鹿みたいにデカい声で話す奴は居たし、騒がしいことこの上なかったけど愉しめた。その後、ミュージアムショップで図録や木村伊兵衛の著作集などを買ったりした。そして!なんと!念願叶ってか、僕の大好きな写真のクリアファイルとポストカードを購入できたのである。

何だかんだでこれが1番嬉しかったかもしれない。僕は購入して美術館を後にした。その後は散歩して帰ることにしたが、渋谷に入った途端に人が本当にゴミのように居たのでそそくさと地下鉄に乗り帰宅した。

そんな1日を過ごした。

木村伊兵衛の写真はやはり最高だ。

よしなに。



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