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雑感記録(144)

【写真について語る】


昨日の記録の最後に木村伊兵衛とソール・ライターについて書きたい旨を書き記した。

実は数日前、仕事の昼休みに古本屋を物色している時にたまたま2冊の本を見つけたのである。値段もそこまで高くなかったので思わず手に取り購入することにした。

写真左が『別冊 太陽』の木村伊兵衛の特集、右が『永遠のソール・ライター』である。どちらも写真集である。実際『別冊 太陽』に関しては写真集というよりもあくまで特集であるので文章が多かったりする。木村伊兵衛のお弟子さんである(?)田沼武能さんによる木村伊兵衛の様子であったり、半藤一利が木村伊兵衛に関する文章を書いている。どうやら神保町の古本市で発見された木村伊兵衛の写真を新しく収録したとのことらしい。

『永遠のソール・ライター』については、単純に僕の願望と言うかそういったものが反映されている。今はどうやら閉幕してしまったみたいだが、ソール・ライター展が開催されていたのだが、僕はどうしても都合上行けなくて、行こう行こうと思っていたら終わってしまっていた。そういうこともあって1度見ておきたいと思って購入した。まさか僕が勤めている親会社が出版しているとは…。安く購入できたかもしれなかったのだが…。

これらの写真集を読み、見た時に思わず心が震えてしまった。僕はあまり写真には詳しい訳ではないのだけれども衝撃が凄かった。特にソール・ライターの方は。木村伊兵衛は大学の友人から以前に教えて貰っていたので、その時から追っかけている訳ではないが古本屋や書店に行ったらアンテナを張るようにしていた。これが初見ではない。


僕はあまり写真というものに従前、興味が無かった。最初に写真に興味を持ったのは過去、僕の記録で再三登場しているが、篠山紀信と中平卓馬が書いた『決闘写真論』を読んでからである。あれを初めて読んだのが、大学を卒業して間もない頃だったような気がする。実際は文芸批評の授業で名前はしっていたのだが、その頃に直接『決闘写真論』を読んだ訳ではなかった。

実際に読み進めていくとこれが中々面白い。僕は毎度リアリズムの話を書いている訳だが他にも面白い所は沢山ある訳だ。気になる人がいたらぜひ読んでみて欲しい。考えるところは沢山あるが、読み進めるごとにその面白さに深みが掛かってくる。

それでこれを読んでからまずは中平卓馬の写真集を見ることにした。地元の図書館に行って中平卓馬の写真集を見たのだが、正直あまり自分の感性にピンと来るような写真がある訳では決してなかった。しかし、僕が見ているのは彼が発行した一部であって全てではない。他に写真集があるのか探して辿り着いたのが『ADIEU A X』だった。これを見た時の衝撃は未だに覚えている。

写真と言うと僕らが一般的に想像するのはカラーの写真で、そこに映されているものが鮮明に映し出されているものである。加えて、それがより僕らの現実と隣接していなければならない。つまりは場面の正確なるコピーというようなイメージとでも言えばいいのだろうか。僕は少なくとも写真と言うものにそういうイメージを抱いていた。僕らの眼で見たものがその通りに映し出されている。

しかし、見てみてどうだ。モノクロの写真でブレッブレでピントが合っていない。それに何が映し出されてるか鮮明ではない。そこにあるのが僕らの眼で見たものでは決してないような気がした。でも、不思議とその躍動感に引き込まれてしまう。モノクロで映し出される被写体の陰翳、それからピントが合っていないことによる被写体の存在感。こういった感情が一気に押し寄せる。

何だろう…。こう言葉で表現することが難しいのだけれども、そこに映し出されている存在が新しい姿で存在するというか、平面上で生気を持って見ている僕に何かを訴えかけてくるような圧迫感。これに僕は喰らってしまったのだ。僕はこの不思議な感覚に酔ってしまったのである。そこから写真の虜(とまではまだ決して、烏滸がましくて言えないのだが…)になってしまったのである。


中平卓馬を皮切りに僕は次に森山大道へ行きつく。その頃はちょうどNetflixで森山大道の映画が配信されていた時期だったように思う。その映画を見て「森山大道の写真集集めよう」となり4冊を集め、神保町に行き森山大道のエッセーと対談集を集めることに執心した。

この4冊はある時期狂ったように見ていた。そして僕が考えていた写真という概念をぶっ壊してくれた写真集である。先にも書いたことと重複してしまうのだが、僕等人間の眼で見た光景をそのまま映し出すものが写真だと思っていたが、「そうか、写真は何もそんなものじゃないんだ」と気付かされる。

僕は「人間の眼で見た光景」と書いた訳だが、それは人によって変わってくる。当然のことである。もっと言うならば、撮影者の眼に映るものが写し出される訳である。これは誰にも共通した視点では決してない。ということは、中平卓馬や森山大道の写真も言ってしまえば「彼らの眼では現実はこう映し出されている」と考えれば、ヘンテコな写真があったって何のことはない。むしろ彼らにとってはそれが現実、写真で表現するリアリズムそのものなのだから変に思うことそれ自体がおかしな話だ。

そういった所で僕はこの2人に写真の概念と言うものを崩して貰ったのである。写真はかくあるべしという謎に通底しているものの陳腐さ(と言ったら言い過ぎな訳だが、しかし僕にはそう思えてしまった)がよく分かった。最初は「なんじゃこりゃ」と思っていたけれども、そこに森山大道のエッセー・対談集『過去はつねに新しく、未来はつねに懐かしい』や『写真との対話、そして写真から/写真へ』の助けもあり受け入れることが出来た。

1度箍が外れてしまえば写真にハマるのにさして時間は掛からなかった。そこから土門拳も見たし、ロバート・キャパとか見て報道写真に興味持ってみたり、林忠彦の写真集も買ったし…。それに荒木経惟も写真集は購入しなかったにしろ、本屋で立ち読みするぐらいにはなっていた。そしてその中で木村伊兵衛に出会う。


直接の出会いは友人に教えて貰ったのが最初だ。それこそ神保町の小宮山書店に友人と行った時だったと思う。その時に僕は森山大道関連の本を探した日だった気がする。少し記憶は曖昧なのだが、しかし大学の友人に教えて貰ったことは紛れもない事実であることは確かである。

確かその時に木村伊兵衛の写真のポストカードを見せて貰ったんだったかな…。あれ、そうすると友人の自宅で見たことになるな…。まあ、いいや。そう、それで友人にそのポストカードを見せて貰った時に衝撃を受けた。僕は写真を見て「美しい」と感じることはあまりなかった人間なんだけれども、それを見た瞬間鳥肌が立った。「綺麗」という言葉ではなくて、「美しい」という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。

そこで『パリ残像』を見せて貰ったのかな。確かそんな気がする。それで僕も欲しくなって後日、今はなき山梨のジュンク堂で購入した。

この写真集を見てこれまた喰らった。何と言うか、森山大道とか中平卓馬とかの写真とかって、写真ド素人からすると結構とっつきにくい作品が多いような印象がある。無論、面白いのだが結局これは何なんだ?というのが結構多かったりする。しかし、木村伊兵衛の写真にはそういうものがない(というと失礼極まりないが…)。ただ、そこに映し出されている存在が妙な存在感を持って僕らの目の前に立ち現れるのである。

僕は絵画でも写真でもそうなのだが、人物画とか人物写真というのが苦手である。何だか凄く圧迫感がある。加えて言えば「いや、人物の顔を描いて、映して何になるん?」という気持ちがどうしても湧いてしまうのである。しかし、木村伊兵衛の撮った人物の写真を見た時にそういったものが一切なかった。不思議とすんなり受け入れることが出来た。これは未だに謎である。人物写真で唯一まともに見られるのは木村伊兵衛の写真だけである。いや、大袈裟でも何でもなくて…。

何だろうな…写真の余白とでも言えばいいのかな、そういったものが僕には心地が凄く良かった。人が映し出されているのだけれども、その顔に余白があるって言えばいいのかな。そこが絶妙に好きである。顔のドアップだと結構キツイものがあるが、木村伊兵衛の写真の場合はそういう写真であっても何か余白があってこちらから能動的に写真に対して「アクションしなければいけない」という気持ちを引き出してくれる。それは人物以外の写真もそうだ。風景の写真を見てもただ単純に「美しい」というのは勿論だが、そこには見てるこちら側に訴えかけてくる何かがある。

僕は木村伊兵衛の写真だとこの『霧の日』という作品が大好きである。スマホの壁紙にするぐらいには好きである。これは何とも言えない雰囲気というか…。実際にこれを見れたらなとも思う訳だが、そういう機会も中々訪れない。悲しい。

木村伊兵衛はそこからハマってアンテナを張っている。それでこの間古本屋にいったら「木村伊兵衛」とどでかく背表紙に名前が書いてあったもんだから思わず購入した訳だ。読んでみると結構貴重な話が書かれていたりして面白かった。

田沼 それは、テレだと思います。自分を誇大化することをすごく嫌う。ですから木村伊兵衛は、生きている間には一万円以上の写真集はつくらなかった。
永田 だめだっていうんだ。
田沼 写真っていうものは、大衆のものだと。この辺は太田英茂さんに仕込まれたんだろうと思うんですね。たくさんの人に見てもらうのが写真であって、そんな大層な…。
永田 大層なもんじゃないっていうのが得意なんだ。
田沼 立派な写真集はだめだ、とんでもないという言い方をいつもしてたんです。秋田も、最初は岩波の写真文庫にしたかったんです。ところが、これは名取(洋之助)さんに断られた。要するに木村伊兵衛の写真は、一点一点が物語になってる訳です。だからグラフに組むということが難しい。グラフに組むコンセプトがないということです。
永田 一点完結しちゃってる。

田沼武能・永田芳男「特別対談 木村伊兵衛を語る2」
『別冊太陽 木村伊兵衛 人間を写しとった写真家』
(平凡社 2011年)P.199より引用

僕は最後の部分がド素人ながらでも分かるなと思った。
「要するに木村伊兵衛の写真は、一点一点が物語になってる訳です。」
これは確かに分かる気がする。『パリ残像』をもう1度見返してみてそれを身に染みて感じる。そう1枚1枚に写真を支えるストーリーがある。これが先に僕が言うところの「余白」なのではないだろうか。こちらから能動的にストーリーを読み解く、はたまた想像する能動性。これだ!と思わず感動した。

1枚1枚じっくり見返すと確かにそうなのだ。これをよく『パリ残像』に纏めたもんだと思わず感心した。つまり『パリ残像』は結局のところ「パリで撮影した写真群」というような様相を呈している。確かにこれはコンセプトの「コ」の字もあったもんじゃない。ただ、それで成立しちゃってるんだから凄い。


ソール・ライターについては実はさして知らない。恥ずかしいことに。本当にこれは興味本位というか、自分が展覧会へ行けなかったという思念が買わせたのである。それ以上でも以下でもない。しかし、その写真には引き込まれることが多かったというのもまた事実である。

『永遠のソール・ライター』を見て感じたのは、隙間から撮る写真が非常に多いなということだった。ガラス越しであったりとか、階段の手すりというのか、そういった所の隙間から写真が撮られている。これは非常に興味深かった。何と言うか「さあ、今から写真撮るよ!」という感じが一切しない。それが僕には面白く感じられた。

写真を撮るとなると何か撮りたいものが中心に添えられるか、あるいはそうではなくてもどこか強調される傾向にあるのではないかと僕は考えていた。それこ中平卓馬然り、森山大道、そして木村伊兵衛然り、当然の如く撮影するものがそこに在って撮っているというような印象を受ける。ところがソール・ライターの写真は何か違う。写真のど真ん中に電柱みたいなのが映っていたり、二人の人物の肩ごしの隙間に映る少年を撮ってみたりと…。

個人的だけれども、写真という枠を外れようとしてる印象を受けた。普通(という言葉が妥当かは分からないが…)何かを撮りたいと思ったら画面いっぱいに撮りたいと思うはずだ。しかし、ソール・ライターは障害物があってもお構いなしという感じで、それが僕には面白く感じられた。

加えて、この写真集にはソール・ライターの言葉が所々に散りばめられており、この言葉もまた堪らなく最高なのだ。ということで、僕の精魂も尽き果てそうなので最後にその写真集から1つ引用してこの記録を閉じようと思う。

I think that mysterious things happen in familiar places.
We don't always need to run to the other end of the world.

神秘的なことは、馴染み深い場所で起こる。
なにも、世界の裏側まで行く必要はないのだ。

『永遠のソール・ライター』
(小学館 2020年)P.196より引用

よしなに。



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