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雑感記録(265)

【インタビューあとがき】


先日受けたインタビューが記事になった。

まず以て、インタビューの機会を与えて下さった無名人インタビューと僕にインタビューをしてくださったポンプさんには心より感謝したい。本当に貴重な経験をさせて頂いた。「あとがき」を書いてくださり、前向きになれるお言葉を頂戴した訳だ。以前の『駄文の円環』シリーズで触れたが、人は些細な言葉で救われることがある。このインタビューのあとがきは僕にとって正しくそれだった訳だ。

それにしても、このインタビューの原稿を見せて貰った訳だが、僕があまりにも話過ぎている感が否めない。どんだけ話しているんだと自分自身で感じた。幸いにも「インタビュー」というテイな訳だから話さなければそもそも始まらない訳だが、質問しずらいようなことを僕がのべつ幕なしに語ってしまっているのだ。これは原稿を読んだ時の気づきである。僕は一方的に話してしまう癖があるのだなと自分自身を見返すことが出来たのでいい機会だった。


内容についてはまあ、あの通りな訳だ。話していることは大概僕のnoteに記録してあるので詳細については過去の記録を参照されたい。

こんなところだろう。あの長ったらしい僕の話し言葉よりも、まだこちらの方が綺麗に纏まっている感がある訳だ。それで、僕は今日上がったインタビューを改めて読んでふと感じたことがある。それは「人の考えというのはたやすく変化してしまう」ということである。

それと、僕は過去の記録でも触れたことがある訳だが、人間という生き物は「矛盾」している生き物であると。「矛盾」それこそが脱構築だと偉そうにデリダを引き合いに出して話をした訳だけれども、何と言うかその「矛盾」ということを凄く意識できたインタビューだと思ったりした。

人間、しばしば「言っていることとやっていることが矛盾している」としてやいのやいのと外野から叩かれることがある。確かに僕もそれでイラっとしてしまう瞬間というのはある。だが、普通にこうして話を聞いてもらいながら、平時の時に於いてさらりとそれを自覚しながら話している、書いているのだから僕だって「矛盾」しているのだ。

ある意味で、その「矛盾」があるからこそ、文学やら哲学、それこそ科学技術などが次々と更新されていくのではないかと思う。勿論、これが例えば国の今後を決めるとか、人の生命に関わるとかだったら話は別だ。そういうミニマムな世界であれば別に「矛盾」することはむしろ面白いことなんじゃないかとさえ思えて来る。ただ、余りにも突飛な「矛盾」は困る訳だが、「分からんでもない」というレヴェル感の「矛盾」であれば許されても良いだろう。

それでインタビューを読んで、小学生の頃の記憶をああでもないこうでもない…嫌いだと言っている訳だ。だけれども、よくよく読み返して見ると、そこまで嫌いではないのではないかと自分でさえ思えて来る。それに1番大嫌いだった奴とか言っておきながら、結局そいつに感謝しているのだから、大嫌いではなく、そうだな、精々「嫌い」くらいなのかもしれない。このインタビューで僕が語っているその殆どは「矛盾」している。

自分の中で1番「矛盾」しているなと思ったのはインタビュー最終。僕は烏滸がましくも「特に若い人たちに本を読んで欲しい」と説教じみたことを言ってしまった訳だ。

僕はインタビュー後、しばらくしてこんな記録を残した。そして「無理に読ませる必要なんてない。読みたきゃ読めばいい。」ということを誰だかの対談を引き合いに出してやいのやいの書いた訳だ。既にこれは「矛盾」である。インタビューでは僕はそれこそ「読書家が読書しない人を見下す態度」でそれを言ってしまっている訳だ。これを話しているその時の自分自身にはその気が無かったとしても、あとあと考えてみると僕もこれを堂々とやってしまった訳である。

だが、正直に言えばどちらも本心であることに違いはない。

若い人たちには軟弱な読書をしてほしくないとも思うし、だけれどもそれに関して僕が「そういう本を読め!」などと言えた義理は1ミリもない訳で。必要だと思えば読めばいいんじゃないと考えているのもまた事実である。こうした所でわりと僕は自分自身の言っていることの整合性が取れていないというのを感じてしまうのである。だが、これを看取することが大切なんではないかと思われる。


僕はこのインタビューの中で「読む」「書く」「対話」の3点の重要性を挙げた。正しくこれの重要性の1つとして、今僕が書いている「矛盾」という問題を浮かべ、自分と言葉との融合というか整合性を取っていく作業という意味合いもある訳だ。人は「矛盾」する生き物だからこそ、僕にはこの3つのサイクルが重要であると思われてならないのである。

人はその時々で触れるものも違うし、考えることも違ってくる。そうすると今まで思っていた事と違う、「矛盾」した考えを思い浮かべることがある。僕はそれで正しいと思っている。何故ならば、その時々で影響を受けている物事は異なる訳なのだから、逆に考えが変わらずに不変で居られることの方が凄いと思うのである。

ただ、それをそのまま「今、この瞬間、こう考えている」だけで終わらすことが良くないということである。それは卑猥な意味での「矛盾」になってしまう。つまりは、僕がイラっとしてしまう類の「矛盾」である訳だ。だが、こうしてnoteなり記録として残っていれば、その時自分自身がどういう考えのもとでそれを書いていたかのプロセスがしっかり把握できる訳だ。その時に自分が何故「矛盾」するに至ったかということを考えることでより深みが増すのだと思うのである。

そのサイクルとして「読む」→「書く」→「対話」→「読む」→…というものが大事なのではないかと思っているのである。それでインタビューでこれを話していたのである。現にこうして読み返して見て、「あ、自分て結構矛盾しているんだな」と気付くことが出来た訳だ。その「矛盾」を是正していくのもいだろうし、あるいは「矛盾」を「矛盾」のまま自分自身に抱えることで考える種を自分自身に植え付けるということだけでも儲けものである訳だ。

そうしてアウフヘーベンして行けばよい。更に深く深く思考することが出来るのではないかと思っている。

僕はかつておじさんっぽくこんな説教じみたことを書いてしまった。ただ只管に考え続けるということ。だけれども、よくよく考えてみて何もなしに只管考えることなど不可能である。人は考える何某かのキッカケが無ければ考える、より深く考えることは出来ない。だが、そもそも人間自体が常に「矛盾」を抱えた人間であるということを分かっていれば、いくらでも考える余地など在る訳だ。

「あの時はこう感じていたけど、今はこう感じている。何で?」「学生時代はこうだったけど、社会人になったら変わった。何で?」とかそういう些細なことだっていい。まずは自分自身をあるいは自分自身の周囲の環境であったり、生活を「読む」こと。その後に、自分はどう考えているのか、とりわけ「今、この瞬間」の時分はどう考えているかを「書く」こと。そしてそれを誰かに話して、聞いてもらい「対話」すること。そうすると自分が気づけなかったことに気付くことが出来る。そして再び、その「対話」を「読む」。このサイクルは考える上では重要である。


僕もこうして自分自身が受けたインタビューを読み返して見て、実際気付けないことが多くあった。それをこうして読んで書いている。だが、難しいのはこの「対話」というステップだ。こういう真面目な話をしてもそれなりに受け答えしてくれる友人であったり、あるいは友達、知り合いでも誰でもいい。そういう人が居てくれれば変わって来るのだと思う。

だから、このインタビューを通して僕は「対話」というプロセスにおける部分についてもっと考えなければだめだなと思った。こうして現に僕の「矛盾」が見事に露呈しているのだから、「対話」ということでその「矛盾」を顕在化させるのである。ある程度「書く」ことでも何とかなる訳だが、それには限界がある訳だ。僕の近々の課題は「対話」出来る相手を見つけること。それは既存の友人以外にということである。

別にこう書いているからと言って、今の友人たちに満足していないということでは全く以てない。むしろ、こんな僕に付き合っていてくれるなんて有難いことこの上なさすぎる訳なのだが…。だが、友人だからこそ僕は彼らのことを尊重したいし、むやみやたらに「出かけようぜ!」とか「お茶しようぜ!」と声を掛けることが出来ない。あとは何よりも、大切にしたいからこそ呼びつける…と言ったら語弊がある訳だが、僕が赴くことで彼らの生活リズムを狂わせるようなことをしたくはない。

何と表現すればいいのか分からないけれども、身近に気軽に会えるようなライトな友人が欲しいなと思う。そうだな、言わばサークルとか部活みたいな感覚で会えてそれなりに「対話」出来る人。あるいは恋人か。

僕が最後で彼女の話を出したのはそういった意味合いもある。何だかこう書くと恋人に依存しそうな感が否めない訳だが…。しかし、それは事実なのだから、こんなところで取り繕ったって仕方がない。だから僕がダラダラとマッチングアプリを続けて居るのは、そういう意味でも「対話」出来る人を探しているのかもしれないなと思った。あわよくば…という彼女になるというのはおまけみたいなものなのかもしれないと、今こうして書いていて思った。

僕にとってこのインタビューというのは東京に来て初めて、「読む」→「書く」→「対話」というサイクルが1つの円環を成した瞬間だったと思う。今回お話を聞いてくださった方が、言い方は些か失礼にはなるが、ある程度距離感があったからそれが功を奏したのだとも思う。適度な距離感を持って話を聞いてくれたり、リアクションを持って聞いてくれたことが良かった。そして何より、話したことをこうして文字に書き起こしてもらえたからこそ、自分自身が気づけなかった「矛盾」に気付き、僕はまた1歩前進することが出来る。そんな感じだ。


一応、これが僕流のあとがき。

ただ、本当に1度誰かにインタビューされて、それを言葉に落し込むということは経験した方が絶対にいいなと思った。だからこの機会を頂けたことに心から感謝したいと思う。それに、音楽の話もまたポンプさんとしたいし。烏滸がましいにも程があるけれども、またインタビューされたいと思ってしまった。

この場を借りてお礼申し上げます。
無名人インタビュー、そして僕をインタビューしてくださったポンプさんには本当に頭が上がらない。何か恩返しができればいいなと思うのだけれども…。

よしなに。

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