雑感記録(186)
【「話す」ように「書く」試み】
先日から僕は『【ゆるゆる読書感想文】』と題して記録を2本残した。古井由吉『杳子』と久生十蘭『昆虫図』についてである。
実は個人的に僕の企みというか、ある種、実験的なことをしてみようと思ってこの2つの記録を残した。それは標題にもある通り、「話す」ように「書く」ということをしてみたかったということである。だから読んで頂くとお分かりになるかもしれないが、最初の方は語り口調が話すような形で書かれている。実際話すときの僕はあんな感じである。
しかし、「話す」ように書いていると不思議と書ける。この「書ける」というのは詰まるところ、言葉が湧いてくるという感覚だ。「話す」ように「書く」とどんどんと頭の中で書きたいことが僕の身体の底から湧いてくる…そんなような感覚だ。これが非常に面白かったのである。それに味を占めて僕は2本も連続で書いてしまったのだ。
何故こんなことをしようと思ったのか。いきなりこのようなことをまず以て、僕が思うなんてことはあり得ない。それはいつも、何かに触発されて書くというのが僕のスタイルというか、これは僕以外の方も当然なのだろうが、何かの契機があって「書く」という行為に至るのである。だから、こうしたことに至るのには当然に何かに触発されたということがある。
先日の記録にもある通り、最近僕は本当に狂ったように柄谷行人の著作ばかり読んでいる。今日も電車で移動中に『探究Ⅰ』を読み、無事に読み終えた。これについては読み終えてから「もう1度読み返したい」となる。理由は簡単で、難しいからもう1度最初から読み返したいという欲求からである。つまり僕は頭が悪い。
それで、何冊か同時並行で読んでいて、それらを列挙すると『世界史の構造』『柄谷行人 中上健次 全対話』『ダイアローグⅠ』『隠喩としての建築』『反文学論』などである。しかし、これらは区切りがつけやすい分、1つ1つの章を読んでは別の柄谷行人の本に移行するということを繰り返している。
その中で『ダイアローグⅠ』を読んで、それに触発されたのである。『ダイアローグ』シリーズはⅠ~ⅴまで出ており、全てが対談集になっている。1979年~1994年までの間になされた主要な対談集が掲載されている。エッセーや対談集を読むことについては以前の記録で書いたので、それは恐縮ではあるが、過去の記録を参照されたい。
対談集の中で、中村雄二郎との対談『思想と文体』というものが収録されていたのであるが、これが非常に示唆に富んでいる。文章を書くということについて、自分の考えを書くということについて考えさせられたのである。個人的に凄く響いた対談であった。
内容としては、僕の説明では確実に不十分なのだが一応書いてみたいと思う。
中村雄二郎についてまずは少しばかし書いた方が良いだろう。彼は哲学者であり、有名な作品とすると『共通感覚論』などが挙げられるだろう。しかし、僕は個人的にではあるがフーコーの翻訳というイメージが強い。例えば僕が所有している翻訳の本だと『知の考古学』である。河出文庫から出ている『知の考古学』については翻訳が異なるが、単行本の方に関しては彼が翻訳している。だから、僕の中では「フーコーの人」という印象が強い。
実際に対談集でもフーコーの話が出て来る。基本的には柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』や『意味という病』について中村雄二郎が話をして、そこから話がどんどん展開され、最終的にはタイトルの通り、思想など何かを書くということが一体どういうことなのかについて深いところで話がなされるのである。この両者の掛け合いが素晴らしい。話が難しいという訳でもなく、「なるほど!」と気付かされることが多かった。
その中で、中村雄二郎が面白い話をしていた。以下に引用する。
先に少し説明を加えておく。この「話し言葉で書いた上で、文章の言葉に書き直すことを今度やってみた」という部分に関して。これは彼の著作である『感性の感覚』の序文についてである。柄谷行人がこの部分を指摘して、「これが非常に重要なことである」ということを言っており、そこからこの対談は始まっているのである。ここで「今度やってみた」というのは柄谷行人の指摘するところの『感性の感覚』の序文のことを指す。
この続きの引用をする。ここからが重要な所である。
あくまでこの話は哲学の分野に於いてというものが前提にあり話をされている訳だが、これは文学の領域、いや何かを「書く」ということに於いて重要なことだと僕には思われる。実際に僕も雑感記録(184)と(185)でやってみて、引用にもあるような「文章の呼吸」みたいな実感が僕の方にやって来たのである。
僕もこの中村雄二郎の言うことが分かる気がした。難しい言葉を使わずに書くということが顕著に現れる。より難しい言葉、例えばシーニュとかランガージュとか、それこそエクリチュールとかいう言葉を使用して書くことが出来たのだろうけれども、話すように書くと不思議とそういった言葉は出てこない。書いている最中にも出てこない。
それに、何と言うか、これが説明が非常に難しいのだが、流れる様に書ける。これは「考えていない」ということを決して意味している訳ではない。気負いせずに書けるとでもいうのだろうか…。凄く肩の荷が降りて書けるのである。それでも自分が伝えたいこと、書きたいことは存分に書けているので爽快なのである。
考えていることと書くことのスピード感が一致しているような気がするのだ。これは雑感記録(185)で小説に固有の時間と言うことで簡単にリカルドゥの話を書いた訳なのだけれども、それと同じような現象みたいな気がしている。僕の思考と書くことが一致しているので厳密に言うと違うかもしれないが、同一性を持って僕に襲い掛かってくるのである。
これに続く柄谷行人の返答も深い。これも引用したい。
特にこの「概念だけの遊びになってしまう」というのは個人的に凄く身に染みた。これは僕のnoteのスタイルにも関わってくる話だからであるし、自分が今実は1番気にしているというか、直面している問題でもあるからだ。
僕の記録は読んでもらうと分かるが、「自分でこう考えました」みたいなのが実はあまりない。つまり、今回の記録でもそうだけれども、引用が多かったり、本に書かれていることをただそのまま書いていることが多い。自分の言葉で説明するように努めてはいるが、自分自身の思考力のなさに毎回打ちひしがれている。
難しい言葉をむやみやたらに使うことはある種の逃げなのかなと思う。こういうSNSの場所ではなんか特にそう思う。難しい言葉を出して何か物を語るということは実は容易なんじゃないのかと思えてくる。それは自分で咀嚼した言葉で書くのではなく、他人の言葉を拝借すればいいだけなので楽だからだ。でも、僕は堂々とそれをやってのけてしまう。
しかし、かと言って柄谷行人も言うように「使わざるをえない」場合には仕方がない。その定着している世界の線引きというか、そこが今僕の直面している問題でもある。例えば僕が哲学じみた話を書くとしたら、哲学用語に於いて哲学界隈で定着している言葉を利用して書ければ簡単に書ける。ところがこれが読まれる、つまり読者を想定してしまった時にそれが果たして通用するかどうかという問題がある。
SNSのメディアで言えば、全員が全員、哲学に素養がある訳ではないので安易に難しい言葉を利用することは難しい。もし、そういった読者を無視するならば問答無用に他人の言葉をバンバン利用して書くだろう。再三に渡って書くが、一応この記録は僕自身の為に書くとは言え、SNSで多くの人の目にさらされるということを考慮すれば、その想定はしたくなくてもしなければならないということを言っておく。
この引用部に於いて更に重要なのは「言葉を成熟させていくという問題と、哲学をするということとは、同じことじゃないか。それは、切り離されるべき問題ではないと思うんです。」という部分である。これが成り立つかどうかは分からないが、逆のことも言えるのではないか。つまり、哲学をするということは言葉を成熟させていくということなのではないだろうか。
だから僕が雑感記録(184)(185)で試みた「話す」ように「書く」ということは言葉を考えるうえで個人的に非常に良い経験であった。言葉を成熟するということが僕にはまだ看取できていない訳だが、このような試みを重ねていくことできっと何かを掴めるのではないかということを信じて続けて行こうと考えている。
さて、話は大分遠ざかってしまったような気がしたが、この試みは僕にとって重要だ。言葉を考える契機になるし、何より僕が如何に書けていないかがあからさまにされるのである。自分の「書く」という行為を考える上でも重要なのかなと思っている。
僕はまだ、中村雄二郎や柄谷行人がこうして対談の中で語っていることについて全てが全て、理解できている訳では決してない。だけれども、こうして書き続ける、今までとは違った形で「書く」という行為について触れていくことは大切なことであると思われて仕方がない。
1つ分かったことがあるとすれば、古井由吉が「書けない所から書き始める」と言うようなことを言っていたが、こういうように「話す」ように「書く」と意外と書けるんだなということが分かった。しかし、その書かれた文章に言語的な美しさや情緒があるかと言われると難しい所があるかもしれない。今後の課題はそこかもしれない。
ぜひ、興味があれば僕の『【ゆるゆる読書感想文】』読んでみて欲しい。シリーズ化する予定である。定期的にというか、継続してやってみようと思っている。
よしなに。
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