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雑感記録(315)

【夜の戯言集4】


 思わず立ち上りながら、彼は「そうさ、海は海だってことか」と呟いた。そうしたら、急に笑い出したくなった。「そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ」もし友人がかたわらにいたら、こんな独白は一笑に付せられただろう。頭の隅でちらとそんなことを考えながら、彼はふたたび呟いた。「ぼくはぼくだ。ぼくはいるんだ、ここに」そうして今度は、泣き出したくなった。
 急に彼はおそろしくなった。頭の中をからっぽにしたかった。〈海〉も〈ぼく〉も消してしまいたくなった。言葉がひとつでも思い浮かぶと、頭が爆発するんじゃないかと思った。言葉という言葉が大きさも質感もよく分らないものになってきて、たったひとつでも言葉が頭を占領したら、それが世界中の他のありとあらゆる言葉にむすびつき、とどのつまりは自分が世界に呑みこまれて死んでしまうのではないかと感じたのだ。

谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」
『コカコーラ・レッスン』(思潮社 1980年)
P.84,85

これから恥ずかしい話をしよう。

以前、僕は友人に「お前はアツいよな」と言われたことがある。この言葉に僕は些かの恥ずかしさと光栄を以てして、「そうか」と一言返したが、僕からするとそれは大したことではない。僕からすると当たり前のことである。僕はこれまで各種記録で「手放しに」という言葉をよく否定的な意味で使うことがあるが、僕も人間だから「手放しに」していることだってある訳だ。その対象が彼だったというだけの話である。

有難いことに、時たま「優しいね」と言われることがある。僕はその言葉を個人的に賛辞として受け取っている。でも、僕からするとそれって「優しさ」というよりも、純粋に僕がその人のことを好きだからそうしているだけなのだ。僕に良くしてくれるとか、僕のことを思ってとか、そういうのは全く以て関係なくて、純粋に僕はその人のことが好きだから自然とそうしているだけのことである。

こういう書き方をすると何だか格好つけてしまっているみたいで恥ずかしい訳だが、事実そうだ。恥も外聞も捨てて正直に言えば、「優しさ」の前提にはその人のことが好きということがある。もしかしたら僕は優しさの押売りをしてしまっていると思われているのかもしれない。それでも仕方がない。好きなんだから。

何だろうな。どう表現すればいいのか分からなくて、ずっと文字を打っては消してをここで10分ぐらいやっている訳で。ただ、これだけは言っておきたい訳だが、誰にでも優しさを振りまいている訳ではない。撒き餌じゃないんだから、そんな無駄なことはしたくない。ここぞという時に取っておきたい伝家の宝刀みたいなものである。

僕は常々、「寛容になりたい」ということを書いている。これは詰まるところ、僕の伝家の宝刀であるところの優しさを磨ぐということと同義である。寛容になろうとすることは、ここぞという時の「優しさ」を発揮するためでもある。大切な友人や家族をいざという時に助けてやれなくてどうする。という感覚を僕はいつも持っている。


僕は生活や世界が好きだ。だから文学や芸術というものが好きだ。そういったものは何か包み込む力があると思っている。それは表面的なものではなくて根深く、暗い奥の奥底までにも光を当てようとする行為そのものである。過去の記録に書いたけれども、それらも1つの優しさ以外の何物でもない。生活や世界を照らすものである。

だから僕はこれからも文学や芸術に関して考え続けるのだと思う。最近は専ら哲学だけれども、そういった文章を読み、ただひたすら考えることで映し出される新たな生活像、世界像に僕は次元を上げて行きたい。そしてそこに居るのは当たり前だが僕だけではない。そこには僕に関わってくれる人たちも居て僕の生活や世界が成り立っていることも事実である。

しばしば、「優しさの押売り」という言葉を眼にすることがある。昨今の本の傾向はそんな感じがしている。どの本を読んでも「簡単で」「分かりやすくて」「読み易くて」「すぐにためになって」という感じがする。そんな優しさなら僕は唾棄すべきであると考えている。それはそもそも「優しさ」以前の話である。僕等からある意味で「優しさ」を奪っている。

誰かに接する時、僕等はその人のことを想像する。話をしていく言葉や仕草、声のトーンなど、様々な要素から想像して、「例えばこんな場合はどう声を掛けたらいいだろうか」とか「逆に今は何も言わない方が良いか」とか様々に接する。そうして何度も書いて恐縮だが「命がけの飛躍」を重ねる中でお互いの関係性を構築していくものである。

ところが、そういう本が横行する中で僕等の想像力は奪われる。それを書き手側は僕等読者に対する「優しさ」だと勘違いしている。僕等に余白を与えず、全てが明瞭化しないといけない。これは優しさでも何でもない。それは書き手側の搾取である。言ってしまえば、想像力の搾取ビジネスみたいなものである。そしてそれが前回の記録でも触れたような、目下僕の敵である自己啓発本の類の流行である。

僕は僕の寛容さ、優しさを育むためにこの現状に全身全霊で抗いたい。


何度も言うようだが、「優しさ」というものは伝家の宝刀である。所構わずに発揮するようなものでは決してないのだ。ここぞという時に、誰か自分の大切に思っている人を守るための1つの大きな武器である。

だから、僕は全力で大切な人を守るために「優しさ」や「寛容さ」というものを鍛えていきたいと思う。これまで実際にそれが出来ているかどうかは分からない。もしかしたら、僕も優しさの押売りをしてしまっているかもしれない。一方的にこう考えて優しさを出すことの悦に浸っているだけかもしれない。もしかしたら、この優しさが迷惑だということも十分にあり得ることである。

だからこそ、僕は文学や芸術や哲学に触れ続ける。それは同時に優しさについて鍛えることにもなると僕は思っている。僕も人間だから、苛々することもあるし、腹立たしいと思うことなんて頻繁にある。毎朝ギュウギュウの電車に乗りながら苛々しているし、会社の窓際族のおっさんが何か年数だけで偉そうにしている態度が腹立たしいし。僕はそもそも短気である訳で…。

それでも、それをある意味で「まあまあまあ…」と完璧に受け入れることはしなくても、「そういう人も居るよな」と成れるようにはなりたい。何度も何度も書くようだが、いざという時に自分にとって大切な人を守れるように伝家の宝刀であるところの「優しさ」を鍛え続けたい。

恥ずかしい話だが。

 一個の未知の宇宙生物にもたとえられる言葉の総体が、一冊の辞書の幻影にまで収斂したとき、彼の戦いは終っていた。海はふたたび海という名のものに戻っておだやかにうねり、少年は手の中のコカコーラのカンの栓をぬき、泡立つ暗色の液体を一息に飲み干して、咳きこんだ。「コカコーラのカンさ」と彼は思った。一瞬前にそれは、化け物だったのだ。

谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」
『コカコーラ・レッスン』(思潮社 1980年)P.88

よしなに。



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