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雑感記録(153)

【本の終焉を見る】


僕は主にこのnoteとInstagram、ThreadsをメインのSNSとして利用している。有難いことに、僕の稚拙な文章や写真を見てそして読んで頂く機会がある。これも凄く嬉しいことに僕の投稿にコメントやアドバイスを頂戴することが時たまある。客観的な視点というのは非常に有難い。自身で気が付かないことが多く、勉強になることが多い。自身の好きなことを信念を以てして貫いてきて良かったと思う。

先に大事なことなので断っておくが、僕は何も「いいね」欲しさに投稿している訳ではない。しかし、SNSで投稿するという行為そのものが既に「いいね」欲しさであるという部分を孕んでいるのではないかとも思う訳だ。ここがSNSとの向き合い方で1番難しい所である。僕は純粋な心持を以てして投稿しているつもりでも、それが第3者、それも大多数の第3者に見られるということはそう言うことであるというのを理解しておかなければならない。

そんな中で、極々稀にコメント欄にメッセージを頂くのではなくDMで直接メッセージをくださる方々も居る。僕にとっては有難いことなので、1人1人丁寧に返信をしている訳なのだが、時たま「むむむ…」という複雑な感情、いや、怒りに近い感情を抱くことがしばしばある。それこそ有難いことに変なDM、失礼極まりない(と自分で言ってしまうのは烏滸がましいことこの上ない!僕は何様だ!?)文章を送ってくださる人はいない。

ところが、中には僕の嫌なところ、これは僕の書いている文章の甘さや考えの甘さ、稚拙さを指摘されるということでは決してない(むしろ、そうしていただける方が嬉しい。正当に批評されたい!)。好ましくないことをド直球で聞いてこられる方が居る。僕は辟易としてしまう。というより、これはある種の最低限の礼儀として…という所なのだろう。

コメントやDMをくださる方の多くは、それこそ有難くそして光栄なことに僕の投稿を隅々まで見て頂いてメッセージをくださる。僕にはそれが凄く嬉しい。と同時に「相手に何かコメントをする時には該当する作品は当然のこと、他の投稿もサラッとでも目を通すことが必要最低限の礼儀なんだな。」と改めて気づかされるのである。僕も何かコメントやメッセージを残す際には気を付けたいところである。

しかし、中には「いや、読んでないだろ。お前、ただ自分のフォロワー欲しいだけだろ!」というようなメッセージを送って来る輩も居る。昨日もそういう方からメッセージを頂いた。フォローの理由、いいねした理由が語られる訳でも決してなく「せっかくいいねしたのでフォローしました」という文言。まあ、それは百歩譲って良いとしよう。ところが、次に続く文章に僕は腹が立ってしまった。

「月にどれくらい本を読まれるんですか?」

僕はこの手の質問をされるのが大嫌いだ。しかも、どうやら一般の人と比べると本を読んでいる人からこれを聞かれるのは正直反吐が出る。もっと言うならば、僕は再三に渡って、それこそInstagramでもこのnoteでも何度も何度も何度も書いていることをやられてしまうとは!?どんなつもりでこいつはメッセージ送って来たんだと思うと同時に、「ああ、もう「文学」が読まれる読まれない云々の話以前の問題なのかもしれない…」と落胆した。

何度も書いているから、もう書きは終いと思ったけれど、さすがにこの現状はいかがなもんかと思った。読書に対する危機感を覚えたのである。だからここにもう1度書き残す。これでこのことについて書くのを最後に出来ればいいのだけれども…。


僕はいつも大学の友人や仲の良い読書家と呼ばれる人にしばしば話をしている。「僕等は少なくとも"何冊読んだかで本を語る"のではなく、"何を読んだかで本を語ろう"」ということを。

しばしば、「"質より量"か"量より質"か」という問題が議論される。どちらの方に優位性があるかという不毛な議論がネット上やそれこそ本の上でも行われている。この"何冊読んだか"というのはある意味で「"質より量"」であり、"何を読んだか"というのは「"量より質"」であるように思われる。

僕は正直な話、読書の初めのうちは「"質より量"」であっていいと思う。というよりも僕がそういうタイプだった。元々読書なんて好きじゃなかったし、何が面白いかよく分からなかった人間だったからとにかくあらゆる作品に触れる必要があった訳だ。詳細は過去の僕の記録参照されたし。

まずは文章そのものに慣れるというか、あらゆる人の言語に触れてあらゆる言語を知ることが肝心である。そうしてあらゆる世界に触れ、自分の世界を拡張していく。これこそが読書の醍醐味であると僕は思っている。そこに至るまでにはやはり数多くの量の本を読まなければたどり着けない世界であるように思う。

更にここに注意を促しておくが、これは所謂「骨のある読書」ということである。何と言うか簡単に読めてしまうような本では決してない。自己啓発本やハウツー本、ビジネス書などでは決してない。これについても過去の記録で散々書いているのでこれまた過去の記録を参照されたし。

そういう経験を積んでいく中で、本が好きになって自身の興味関心のある分野の本を読み続けるのも良し、「骨のある読書」に疲れて自己啓発本やハウツー本、ビジネス書を読むも良し、そして読書の意味が見いだせず読書を辞めるも良し。というようになっていくのがベストなんじゃないかと僕は思っている。

それで話の本筋に戻る訳だが、僕は個人的にだが、"何冊読んだか"で語るのは最初のうちだけしか許されないと思っている。本をそもそも読めないという人が読書をし始めているという条件付きであれば"何冊読んだか"で本を語っても良いと僕は思う。読書が苦手な人にとっては、その"何冊読んだ"ということが読書をするモチベーションになるはずだからである。事実、僕も最初はそうだった。

図書館に籠ってとにかく「今日はこれぐらい読んだぞ」というのがある種のモチベーションとなって継続できたのである。読書をしていると中々眼に見える指標というのがない。自分は果たしてどこまで進んだのか、この行為に終りは来るのだろうか…という一抹の不安との戦いの中で僕は当初読書をしていた。だからそこに書かれていること云々より、自分がどこまで読んだかという本の右端あるいは左端に書かれている数字が拠り所だった。

でも、読み進めて本が読めるようになって、読書の愉しさに気付き好きな作品を好きなように読めるようになった時そんな数字がどうでもよくなってしまった。むしろ、それ自身が馬鹿馬鹿しくなってしまった。だって数字で本は語れないでしょ?仮に本に書かれている内容や自身が感じたことを数式などで表現できるのであればそれは別だ。しかし、人間の感情はそう簡単なものではない。

前の記録でも書いたが、僕らは日々の偶然の中に常にいる訳だ。そしてそれは世の理を超越したり、あるいは自分自身でさえも理解できない何かに出会う瞬間ということはある訳だ。僕等は偶然と矛盾の中に生きている。

読書することで仮に自身が感じた事を言語化することが出来なかったとしても、「俺はそれを言語化することが出来なかった」というように語ることは出来る。そして対話することで「そうか、こいつはこの本を読んでそう感じたのか」と感じることが出来る。そこからその人の考え方や思考の流れ、あるいはその人でさえも触れ得ないような何かを知覚することが出来るかもしれないのである。これこそ本について語ることの醍醐味である。


本を数で語るのは終わりにしよう。勿論、読書ビギナーならまだ許容範囲内だ。しかしある程度読書をしているという自負があるのであれば、「月に何冊読んでます」や「年間何冊読んでます」、あるいは「年間〇〇冊を目標にしています」なんていう陳腐な言葉を羅列しないで欲しい。そんな輩が居るからこそ、そもそも本というものが商品さを増して人生を豊かにするものから、ただの消費財と化してしまっているのである。

そして、読書をしている人に対して「何冊読んでるんですか?」とか不躾に聞くものではない。そんなくだらない数でマウントを取りたいのであれば、それでほくそ笑んでいる人たちだけの間で勝手にやってほしいものだ。頼むから他所でやってくれ。僕に関わらないでくれ。

それなりに本を読んでも(と書いたが、実際僕は全然本を読んめていない人間だ。読書家と言えるには程遠い)僕みたいに馬鹿な奴は居るんだ。それはまた当然に逆も然りである。読んでいる冊数が少なくても様々に考え、多くの面白い人間は沢山いる訳だ。

"何冊本を読んだか"で本を語る人間は所詮そこまでの人間でしかない。そこに人生の厚みも考えの厚みもないただの言葉の奴隷に過ぎない。"何を読んだか"で本を語ることで相手の考え方など相手に対する想像力を働かせ、そして人生をより豊かにしていくものだと僕は信じて疑わない人間である。


あなたはどうやって本を語る?

よしなに。

『虚無への供物』愉しみ~‼‼‼

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