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雑感記録(135)

【巷の読書論】


引越をした際、僕の部屋の全ての本が持って行かれたので実は読書が出来ずにいる。これは困ったなと思い、先日新居の鍵の受け渡しの際にまたもや神保町へ赴き本を数冊見繕ってきた。しかし、結局のところこれも東京へ持って行かねばならないことを考慮すると、「購入するタイミング、ミスったかな…」とも思う訳だ。

しかも、僕の場合はどうしても昔の作品であったり、まだ文庫化されていない作品を読む機会が多いのでどうしてもサイズ的に大きいものになってしまう。それでも読みたいものは読みたくなってしまう。それで今日は午前中から作業の合間に谷川俊太郎の詩集をちょこちょこ読み漁っている。谷川俊太郎の詩集はいつ読んでも良い。

僕は小説も勿論好きだが、詩の方がどちらかと言うと好きだ。一言で言ってしまえば「文量が少ない」これに尽きる。それでいて考える余白が数多く存在する。これが堪らない。必要最低限の文字数でありながら、そこに省略された数々の思考を考えることは愉しい。下手したら小説より色々と考えてしまうことが多いのかもしれない。

僕は吉岡実の詩が1番好きだ。そこに書かれているのは日本語であり、僕らがよく知っている言葉の数々なんだけれどもそこにある何か(得体の知れない何か、感覚とでも表現しておく)がゾワゾワさせる。これは過去の記録に吉岡実について書いてみたので参照されたし。

詩を読みながらふと考えてしまう。今、この時代に於いて詩が果たして読まれることがあるのだろうかと。小説は読まれメディアに大々的に取り上げられることはあるが、詩というものはあまり表舞台に立つことはない。知る人ぞ知る的な世界観があるように思う。今日はそんな訳で、「詩」というものに着目して「読書すること」ということをこれまた適当に書き殴ってみようと思う。


今の社会で「本を読む」「読書をする」と言った時にまず1番疑問に感じるところは「何を読んでいるの?」というところである。この「何を読む」というところが実は肝心だと僕は思っている。しかし、僕はここ最近の傾向を知らない。どんな本が多く読まれているのかなど知る由もない。ただ1つ言えるのは小説や哲学や、それこそ詩が読まれるという機会は少なくなったのではないかと。

こういう考えに至ったのには大きな理由がある。それはSNSやインターネットで検索を掛けてみた時に紹介されている本の殆どがビジネス書や自己啓発本といったものばかりであったからだ。加えて新刊書店に赴くと小説よりもビジネス書や自己啓発本が全面的に押し出されており、小説などと言った本は片隅に追いやられてしまっている。こういう現状もある訳で、僕は短絡的にではあるけれども最近の読書はそういった本がメインで読まれることが多いのではないかという結論に至る。

冷静に考えて結構理にかなっていると思える。何と言うか「生きることとは同時に働くことである」と考える僕と親和性が非常に高い。しかし、考える方向性が異なる。僕はそういう考え方、つまり「生きることは働くことじゃねえぞ!」というように逃げたいが為に、全力で逃避行を図るために読書をする。だから小説や詩、哲学といった作品を中心に据えることでこの社会に対してある種の厭世観を持って生きていきたいと思うのである。

ところが、最近の社会の傾向はそれを受け入れて、飲み込んだうえでどう戦っていくかと言うのが主眼に置かれている。そのための読書がある。つまりは読書の武器化。社会を攻略するためのツールとして存在するように思われる。そう考えるのであればビジネス書や自己啓発本は持って来いのものだと僕自身も思う訳だ(内容やらそういったものは抜きにして、何と言うか構造的な部分で見ればということだ。僕の主観は抜きにして。)

短い時間で、所謂「スキマ時間」で読めることが重要になってくる訳だ。その短い時間で重厚な何かを得ようとすることがここでは重要だ。働きながらでも読めて、尚且つ即戦力になれる知識。戦うためには必要なものである。読書することで武器を手にし、この社会と言う戦場を駆け抜ける。そうしてその中で1番になるために。そう、資本主義という競争社会に於いて重要なことだ。


まあ、色々書いてきた訳だが最近の傾向としてはビジネス書やら自己啓発本が多く読まれる傾向にあることは紛れもない事実であるはずだ。では、何故小説や詩が読まれなくなってしまったのだろうか。それが読書の選択肢の1つとしてすら挙がらなくなってしまったのだろうか。

まあ、これは考えるまでもなく答えは単純明快。「コスパが悪いから」これに尽きるだろう。知識の即効性を求める現代に於いて、ちまちま読み続けてじっくりと考えることなど超絶「コスパ」が悪い。1冊の本を読むのに時間を掛けて得られるものが無かった時のリスク。そういった要因を考えると選ばれないはずだ。

ここからは個人的な話になるが、僕は「コスパ」という言葉が嫌いだ。正確に言えば事あるごとに「コスパ」「コスパ」とか言っている輩が嫌いだ。勿論「コスパ」を重視することが重要な場面もある。僕自身も労働している時に「コスパ凄く悪くないか!?」と思うことはしばしばある。しかし、読書に「コスパ」を求めること程愚かなことは無いのではないかと感じている。その「コスパ」の悪さ込みで読書なのだ。

とここまで書いて気づいたが、恐らくだけれども現代では読書すら労働の1部になってしまっているということだ。読書に「コスパ」を求めるということは何よりも社会の競争に勝つために手っ取り早く武器を入手したいという欲望なのだと思う。労働の為の労働をしているような感じがしてしまう。

先にも書いたが、僕は読書はこういう社会からの逃避行としてしているに過ぎない。だから読書が武器だと思わないし、ぶっちゃけ社会の競争の役に立たなくていいと思っている人間だ。たまたま役に立ったらそれはそれでよかったねぐらいの感覚で良いと思っている。だから僕は読書に「コスパ」を求めたくないのだ。

このような社会の中で小説が読まれなくなっている。それでは小説が読まれるためにはどうしたらいいのだろうか。これは答えなんか簡単で、言い方は甚だ失礼だが「大衆に迎合すればいい」それに尽きる。


僕は過去にそういった社会の中で「商品性を帯びた小説に興味はない」ということを記録した。現状は僕はこのように考えている。

しかしだ、「コスパ」のいい小説って何ぞ?となる訳だ。簡単に言えば先のビジネス書や自己啓発本と同じくサクサク読めるもの、身になる作品である。ただ小説はエンターテイメント性も兼ね備えているから「身になる」という部分は度外視してもいいかもしれない。この小説がエンターテイメント性を帯びてしまったというのはイコール商品性を帯びてしまったという認識でいいだろう。

そうすると、そもそも小説は何百、何千、何万字で書かれている訳でその時点で「コスパ」は最強に悪い。ただ文字面を追うだけなど時間が掛かりすぎる。そうするとその文字数を読ませる程のエンターテイメント性、読者の興味関心を持続させる何か突拍子のなさが小説には求められてくるはずだ。

つまり、小説の質が落ちる。いきなり飛躍してしまったが、その小説の重厚さよりも面白さが優先されてしまう。もっと言ってしまえば、そもそもの読者の思考的強度があまりにも軟弱すぎるということだ(僕自身も含めて)。考える読書からファッションとしての読書に成り下がってしまったということなのだろう。

これも何だか前に書いた気がするが、能動的読書と言うのが今ではされないようになっているという現状がある気がする。

恩田陸の作品を引き合いに出して書いたのだが、自分と言う存在を没入させて読書するという行為自体がそもそも必要とされなくなっている気がしてならない。加えて昨今ではミステリー作品などが小説作品でも主流の傾向にある訳だが、あれじゃ読むと「自分でも考えた」という気にはなるが、実際に考えるのは作中のみの思考であって、それが敷衍して外界の思考とは繋がらない。閉じられたその作品のみの思考で留まり広がりを見せない。

それはそれで勿論、良いことなのかもしれないが読書そのものが持つ醍醐味を悉くその小説自身で破壊しているような気がしてならないと感じるのは僕だけだろうか。


そうすると、今度求められてくるのは「速読術」と言われるものだ。時間がない中でいかに多くの作品に触れられるかということを考慮した手法に着目せざるを得なくなる。そうして各所各所で「いかに早く読み、いかに多くの本を読むか」が重要になってくる。

無論、早く読めて多くの作品に触れられればそれに越したことはない。それだけ多くの作品に触れれば考えることも沢山できるだろうし、横断的に読むことで思考に深まりが出て来るはずだ。しかし、だからと言って早く読む必要があるのかどうかというのは僕にとっては些か疑問である。

これが例えば「俺は速読術を使ってデリダを読もう」となった時に、果たしてデリダが理解できるのか。はたまたこれがラカンになったら?マルクスになったら?ということを考えると難しいような気がしてならない。つまりは、速読術にも僕は限界があると思っている。

多くの読書経験を通じて読む速度が上がったということであれば、何と言うか腑に落ちる。なるほど、難しい本から簡単な本まであらゆる本に向き合ってきたからこそ、速度が上昇したのだなと納得がいくものだ。しかし、最初から「速読術」を手に居れようなんて傲慢にも程があるような気がしてならない。

一時、「速読術」を謳った本が多く出版されていた。今でもある訳だが、そういった本を読んでいる人たちの気が知れなかった(今でも気は知れないのだが…)。皆が皆これを読めば速読できるようになるのであれば、この世の中は速読家がごまんと溢れているはずなのに…。まあ、そんなことはどうでもいい。

とにかくだ、文章を味わうという経験をしなくなる。「内容が分かればそれで充分」と言うことになってしまう訳だ。そこに一体何が書かれて、そこではどのような人物がどういう行動をして、どんな事件が起き、どんな結末が待っているかが分かればそれで満足になる。今この社会で求められていることは畢竟するにこれなのだ。


というように考えてみるとだ、詩が読まれなくなることは必然であるように僕には思われて仕方がない。詩と一言に言ってもそこに描かれていること、内容は勿論のことながらそこで書かれている言葉にも着目する必要がある。萩原朔太郎などが書いていたが、つまりは「形式と内容」の問題がそこには存在する訳だ。

例えば、吉岡実の詩を読むと何を言っているか分からない。これはどれだけ速読しても内容については到底理解できないだろう。そうすると他に着目するところと言えば「形式」ということになる。そこに書かれた言葉の連なり、あるいは様々な詩を通した繰り返しの表現(過去の記録では「卵」を引き合いに出した訳だが…)などに着目する。そうして言葉そのものの面白さを感じることが出来る。

ところが、今それをやっていると「暇人のやることだ」と恐らく一蹴されてしまうのがオチだろう。加えて「意味不明」とも言われるだろう。更に言うのならば、「こんなもの読んで何にも役に立たないじゃないか」とも言われるだろう。それは社会の競争に何の役にも立たず、戦闘力にも貢献しないからだ。

ここが難しい所なのだが、小説や詩の出自はそもそもがブルジョアの暇つぶしな訳だ。所謂「サロン」と呼ばれる小コミュニティで読まれ、書かれたものが徐々に広がりを見せ今のような状況になっている訳だ。つまりは、そもそもの小説や詩と言うのが何かの役に立つというものに立脚したものではなくある種の芸術性と娯楽性を持ったものである訳だ。それに対して社会に対する戦闘力を求めることがそもそも間違いなのではないか。

ともすると、僕が考えるところの「逃避行としての読書」というのもあながち間違ってはいないんではないかと思われて仕方がない。ただ時代が進むにつれて「小説は社会を変え得る武器」と認識してそれを利用する輩も現れ、中には良い作品も数多く残されている。それが僕の好きなプロレタリア文学という作品群である訳だ。小説や詩が芸術性を帯びているということが時代と共に変容しつつあるのも事実な訳だ。

そんな中で僕は未だにそういったものに芸術性を求めているのは馬鹿なことなのだろうか。作品構造の美しさ、言語体験としての美しさ、そういったものを感じるための読書というのは意味がないことなのだろうか。


知識を得ることだけが読書の醍醐味ではないし、そもそも知識を得るだけであればインターネットを利用する方が優位性がある。検索ワードを入れればすぐに調べたいことが出てくる訳で、本を読んで知識を得るぐらいならばそっちの方が「コスパ」が断然いい。

しかも今では何だかのサービスで読書の要約サービスなんていうものもあるらしいではないか。だったらそれを利用する方がよっぽど「コスパ」が良い。ビジネス書や自己啓発本ですら読む必要なんてなくなっている。何だか悲しい世の中になってしまったものだと僕には思えて仕方がない。

勿論、僕も社会人だし働いているから忙しさとか社会の厳しさとかそういったものは重々承知しているつもりだ。だから無理に読書しろなんて言うつもりもさらさらないし、小説や哲学、詩を読め何て言うことを言いたい訳ではない。

ただ言いたいことは1つで、僕は昨今の骨のない読書をごり押しする社会と言うのがあまり好きではないということだ。

だから僕はこうして社会からすれば「意味のない読書」と思われるようなことも率先してやりたいと思うし、現に全く社会にコミットしない(と言ったら読んでいる作品たちに失礼だが…)作品たちを好んで読んでいる訳だ。僕は戦闘力なんていらない。生き残れなかったら生き残れなかったでそこまでの人間だったということなのだから。


結局は自分が好きなものを好きなだけ読んでればそれでいいような気もするが、ビジネス書や自己啓発本などを読んでいるというだけで「読書してるぜ」というようにデカイ顔をしてほしくないということだ。というか、そもそも読書してることそのこと自体が立派だとか偉いだとかという次元で語られることではない。

むしろ、ある意味でそういうような風潮になってしまったこと自体が嘆かわしいことなのかもしれない。「読んで当たり前」という人が今では少なくなってしまったのだろう。それはそれで仕方のないことだ。読まずとも情報が簡単に手に入る時代で、忙しい現代社会ではそんな本を読むことですら贅沢なことに位置してしまっているのだ。

詩を味わうことも贅沢なことなのかもしれない。そういうことを噛みしめながら読書に勤しむことにしよう。

よしなに。

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