雑感記録(246)
【ただひたすら考え続けろ!】
今日も今日とて、昼休みに僕は神保町を徘徊していた。
これはよく聞かれるのだが、「毎日神保町の古本屋に行って飽きない?」と。確かに本のラインアップなんて毎日とっかえひっかえするものではないし、正直僕も毎日居る訳だがさして変わり映えなどしない。だが、僕はそこが凄くいいなとも思う訳だ。そこに在る本は確かに毎日毎日変動することは無い。だけれども、本を手に取る人は毎日変わる訳でしょう。僕みたいに毎日通っている奴なんてそんなにいない。そうやって変わらない物と移り行く流れみたいなものを感じるのも好きだ。
この時期は新入社員や新入生が街には多くいて、何だかフレッシュな気分なのだ。古本屋というある種、老齢なものが集まる場所に、あるいはその周辺にほんの少しだけれども新鮮な風があるのは何だか嬉しい。それに僕の職場には新入社員など入ってこないので、いつもの変わりない日常がそこにはある訳だ。少しぐらいはあってほしいなとも思う訳だが…。まあ、そんな話は実際どうでもいい。
それで古本屋に向かう道中で「スーツに着られた若者たち」を見ながら「ああ、僕にもこういう時期があったんだよな…」と思いを馳せてしまう。よくよく考えてみれば6年前になる訳で。6年間もよくもまあ社会人として生きてこられたなと何だか感慨深くなる。しかし、この6年というその年月の流れというのはあっという間で、実際「感慨深い」と書いたものの、その実どこが「感慨深い」のだろうと自分自身を疑い始めている。
「6年もの長い間を社会人として生きてこられたこと」に感慨深いのか、あるいは「6年という長い時間が過ぎてしまったその年月の儚さ」に感慨深いのか。僕にはよく分からない。両方のような気もするし、違うような気もするし。いずれにしろ「感慨深い」という言葉はズルい言葉だなと自分で書いていて思う。あらゆる感情を包含して、手っ取り早く表現したいみたいなそんな印象を受けてしまった。
だが、本当にこの6年は色々あったなとも思う。特に東京に出てきた頃から。当たり前だけど生活は一変するし、仕事も一変した。今でもまだ正直なれない部分っていうのはあるけれども、それなりに充実した時間を過ごせているとは思う。ただ、時たま、ふっとした瞬間に「自分が選択してきたことは実の所、間違っているんじゃないのか?」と考えてしまうことがある。
しかし、そう考えること自体が実際にはおかしな訳だ。なぜならば、僕はこの会社というか会社の製品が好きで入社した。自身の「好き」という気持ちを優先してここまで来た。だが、果たしてそれが正解だったのかは分からない。さらには、そもそも「正解」とか「不正解」という考え方自体がおかしな話である訳で、一体僕は何を考えてしまっているのだろうとパソコンで文章を打ちながら考えている。
これも前の記録で書いたが上司に「苦労は若いうちに買ってでもしなさい」と口酸っぱく言われた。何だかそれが物凄く自分の中に響いている。というかずっと響き続けている。今僕は苦労しているかと聞かれれば、恐らくだけれども答えはNO!だ。今の職場は正直言うと前職よりも緩い。時間の流れもゆったりだし、しっかりやることをやってしまえば、手持無沙汰になる。だから「何すればいいですか?」と聞いたり、自分で「これやっときました」とするのだが、それも段々無くなってくる。積極性が空回りする職場である。
銀行の時はそんな余裕すらなく激務、激務、激務…みたいな感じだった。家に帰れば疲れて本を読むこともままならないし、noteを書くのが「愉しい」とかではなく、どことなく日常の仕事の一環としての「義務感」みたいな形で書いていた。しかも、毎月の如く試験がある訳で、僕は好きなことに全振りしたいけれども結局それに追われる毎日だし。何だかただ我武者羅に仕事をしていたような気がする。
しかし、学べることは数多くあったし、「銀行で働けて良かったな」と今では思っている。これは本当だ。わりと厳しい環境に居たけれども、周りの特に先輩や上司に恵まれていたから、色々と助けてもらったし、色々と教えてもらうことが多くやって来れた。辛くて詰まらない毎日だったけど、それを支えてくれた人たちのお陰で乗り切れたことは紛れもない事実である。僕は本当に恵まれていたんだなと改めて思う。
こうやって考えてみると、僕は本当に苦労せずにここまで来てしまった感が否めない。勿論、転職する際には苦労したけれども、正直あれは一過性の「苦労」にしか過ぎないし。東京と地元の行き来は大変だったけれども、仕事から離れて気分転換ぐらいな感覚になれたのは事実である。まあ、リモートでの面接が1番しんどかったが…。それでも「苦労」というよりか、「やって当たり前」だったし、無我夢中でやっていたところもあるからさしたる「苦労」とは言えない。
親元を離れて1人で生活すれば少なくとも「自分で何とかしなければならない」という境遇に置かれて、様々な「苦労」が降りかかってくるかなと思いきや、意外とそんなことは無く無事に生活できている。「苦労」なんて無い方が本当は良いんだけれども、それでも悩んだり考えたり、考え続けたりするって言うことは大切だと思う。だからそれの代替っていう訳じゃないけれども、アグレッシヴに読書が出来るのだと思う。本を読むのだって一応は「苦労」する類のものだ。
お陰で僕は毎日毎日、こうしてnoteに書き続けられるぐらいには考えていられる訳だ。これが「正解」とか「不正解」というのはどうでも良くて、この考え続けるという行為そのものに意味があるはずだと僕は思う。「苦労を買ってでもした方が良い」というのは畢竟するところ、とにかくただひたすら考え続けることっていうこととも繋がってくるのではないかと思う。例えばだけれども、横暴な顧客に対する対応や説明の仕方など、普段の通り一辺倒の説明だけでは納得しない。その人にしかないその人の「言語」みたいなものがあって、それを考えてみたりとか。色々あるだろうけれども、とにかく「ただひたすらに考え続ける」ってことを求められているのだと思う。
ただひたすらに考え続ける。
本を見ていると、外から若い学生2人の声が聞こえてくる。
「やっぱり、マルクス読んだ方が良いのかな…?」
「当たり前だろ!読まなきゃ!」
「でも、色々ありすぎて分からないよ。」
「お前はマルクスを勉強したいのか?それとも共産主義か?」
「いや、よく分かんなくてさ…」
「じゃあ、とりあえず読もうぜ。」
「でも、何を読んだらいいのか…」
「この間、ローザ・ルクセンブルク読んだけど良かったぜ。」
「じゃあ、それ読む。」
その一連の会話の後、彼らはお店を出て行った。何だか僕は本当に大学時代の僕自身を勝手に投影してしまった。「ああ、何か良いな…」と思って1人勝手にほくそえんでいた。
僕はローザ・ルクセンブルクを読んだことが無い。
よしなに。
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