見出し画像

雑感記録(122)

【『ハンチバック』覚書】


先日、市川沙央さんの『ハンチバック』を読み終えた。今日はその感想を稚拙ながらも書かせて頂こうと思う。しかし、どうも癖で穿った読み方しかできないので、変なことを書いてしまいそうで怖いということだけ先に断っておくことにしよう。

まず、読後感というところから。正直なところを言えば、レビューに書かれている程僕には刺さらなかった。勿論、内容に関しては考えさせられる箇所が多く、所々で「自分は傲慢な生き物だ」ということを痛感した。ただ、何というか、これは僕個人の好みであるのだが、「性」の話を持ってこられるのはずるいよなと思ってしまう。

「性」のことを書くことがどこかで真理を表明しているという部分に僕は常々疑義を抱いている人間だ。この作品はある意味で障がい者の性的な部分が色々と趣向を凝らして描かれている訳だが、そこに何か1つの真理があると描かれている点に関しては「ああ、そうなんだ」と思いつつも「またか」という気持ちも正直なところあった。

「性」という日本に於いてある種の秘匿性あるものをわざわざこうして文学を借りて告白するような様相を呈している訳で、申し訳ないがこれは"健常者"であろうが"障がい者"であろうが僕は個人的に「どうなの?」と感じてしまう。何だか最近の作品の傾向として「性」に走る傾向があるし、所謂現在で言われる所の「純文学」と呼ばれる作品の殆どがそういった「性」に関係していないと成立していない気がしてならないと改めて感じることが出来た。それだけでも僕にとっては収穫だった。

柄谷行人の『日本近代文学の起源』が思い出される。「告白という制度」っていう章だったかな?僕は『ハンチバック』を読んでそれがパッと頭の中に浮かんできた。いや、厳密に言えばフーコーの『性の歴史Ⅰ』な訳だが…。まあ、ここについては僕自身がまとめきれていない部分があるので、あまり触れないことにしておく。ただ、告白=真理=性という流れについては一応念を押しておくことにしよう。

いずれにせよ、僕は昨今の作品に於ける「性」の無差別な取り上げ方?とでも言えばいいのか?そういったところにげんなりしていた所に、追い打ちを掛けるようにまた「性」の話だったので、正直うんざりしてしまった。僕の小説熱は正常に戻ることはなさそうだ。

ただ、何度も断っておくが、障がい者の「性」をスキャンダラスにすることについては非常に大きな意義があると思われるし、"健常者"である僕等では気づけないような視点での描かれ方がされている訳で、勉強になる部分も勿論多かった。


さて、実際の中身に入っていく訳だが、僕はやはり「当事者」という部分が大きく貢献している作品であるなというのが結論である。それは文学と病気という観点から見た場合なのだが。それについては過去の記録に残しているのでそれをベースにして考えてみたいと思う。

この記録では有島武郎の『小さき者へ』をベースにして話を進めている。その作品の優位性について書いてみた訳だ。それを他作品の比較で見た。今、自身で読み返して見ると何だか納得いくような気がしている。それは先にも書いたが「当事者」という点である。

有島武郎の『小さき者へ』は実際に有島武郎のストーリーな訳で、そこに描かれる内容や言葉には彼の心が詰まっている感じがする訳だ。やけに現実味を帯びていて、読んでいる僕らに訴えかける心が垣間見える。僕はその部分に心打たれた訳だ。

昨今のこういった病気を取扱う作品、これは文学に限らずだが、どこか必ずと言っていい程に「おセンチお涙頂戴」のものが多くそこにはリアリティがない。それに、大体書いている人間がそんな病気を知っているだけにすぎず、あくまでも頭の中でこねくり回した論理の中で生み出された架空の病気、幻想な訳だ。それを大々的に取り上げている姿勢が僕は気に喰わなかった。

やっぱり、そこで考えられるのは「生の声」「生の体験」というところであった。僕は常々そこを考えていた。そして、もし「当事者」が書いたらどうなるだろうとも。そうしたら、この『ハンチバック』が現れた訳で。驚きが隠せなかった。実際読んでみて、そういった部分で僕は大いに嬉しかったこともまた事実だ。つまり、当事者による当事者の為の文学。これは非常に大きい功績だと思われて仕方がない。

ご本人も「当事者」が小説を書くことの重要性を説いておられたが、言い得て正しくと言った感じだ。しかし、それは言い方悪くなってしまうが市川さんだから出来た訳であって、障がい者で文才があるからと言って全員が全員出来る訳ではないということもまた事実である。

とにかく、この「当事者」性が非常に功を奏した作品であると思った。ただ、もしも仮に市川さんご自身が障がいがあることを秘匿してこの作品を世に生み出していたらどうなっていただろうと身も蓋もないことを想像してみたりする。馬鹿げている想像だが、重要なことである気がする。

現に今、こうして僕は彼女が「当事者」であるということを認識したうえで書いている訳だ。そして偉そうに言葉をわちゃわちゃ並べ立てて上から目線で書きたいことを書いている。作品そのものだけで見た時に果たしてそれがリアリティを以て眼前に現れるかどうか。障がい者のリアリティがそこに現れるのか。

既に僕はバイアスが掛かってしまった読みをしてしまったが故に、そこは曇ってしまっていると言わざるを得ない。その証拠が「へえ、そうなんだ。」と僕が感じてしまっているということ。「こういう感じ方をするんだ」「こういう感覚なんだ」と分からないけれども納得してしまうということだ。仮に文章が稚拙だったとしてもそうならざるを得ない。


という訳で、それをなるべく排除したうえで作品そのものについて見ていきたいと思う。それよりも、まあここからは純粋な文章として見ていくということだ。

まず最初に感じたことは専門用語の多さ。別にこれが悪いとか良いとか、そういったことを言いたい訳ではない。ただ、僕はそれに躓いた部分が多かったというだけだし、むしろその言葉を使うことでしか表現出来ないこともある訳で、そこにその言葉を使用する必然性ということ。これがしっかり考えられていると個人的には思った。

その説明がない所もまた良いと思った。それは僕の考えるところの、余白。つまり、僕らの考える余地というかそういったことを与えてくれる。何というか、学びが多い作品であると表面的に感じることが出来た。この「表面的」というのは僕が詳しく知らないから、ということにある。言葉上で理解できても、想像することが僕には困難だ。だから調べる。そうすることで、僕は「筋疾患先天性ミオパチー」について調べる。学びが多かった。

読んでいて1か所だけ残念な部分があった。引用しよう。

 「でも、おれは漫画よりパチンコやりてーな」
 「連れてってあげたいけどねえ。遊べなくても、雰囲気だけでも」
 「雰囲気!雰囲気じゃーな」
 当事者公認の自虐的笑いどころが来た。「ま、今じゃー自分の玉もハジけないんだからしゃーねーよな」
 「やめなさい。うら若い女性の前よ、山之内さん」
 「あ、ごめんねえ」

市川沙央『ハンチバック』
(文芸春秋 2023年)P.22

この「当事者公認の自虐的笑いどころ」という言葉を見た時に、この表現はなあ…と感じてしまった。何だか僕はこの文章で一瞬冷めてしまった。別にわざわざ「当事者公認」と言う必要性を僕は少なくとも感じなかった。それだけの話なんだが。これを言語化するのは実は結構難しくて、当事者自身が「当事者公認」という言葉を使用していることに恥ずかしさを覚えてしまった。

堂々と書けばいいんじゃないかなって僕は個人的に思った。この言葉で僕は一歩引いてしまって、面白さが半減してしまった気がする。わざと「当事者公認の自虐」と書いてしまうと、「この人は障がいを持った人なんだよ」と更に強調する形になってしまって、くどい。それにこの作品を書いている人も「当事者」。くどい。分かった、分かったから。と僕は少なくともなってしまった。

当事者というところを何だか凄く強調している感じがして、申し訳ないが厭らしさを感じてしまった。先の有島武郎然りだが、彼が実際にその当事者であるということは作中に於いて一言も触れていない。初見で、有島武郎の事情を知らない人が読んだら、それが有島武郎のこととは分からない。しかし、敢えてそこで「当事者なんです!」みたいな形で「当事者」という言葉を使用してしまったら「ああ、やっぱり」みたいな形になってしまう。

まあ、少なくともこれは僕の感想だから。

それと、あと1番心に響いたところがある。それは紙の本を憎む描写が多々ある所だ。僕はちょうど先日、紙の本と電子書籍について記録を書いたばかりである。

僕は紙の本派だと偉そうに豪語しているが、障がい者にとって電子書籍が救いになっているというところに気づかされた。これも引用したい。

本に苦しむせむしの怪物の姿など日本の健常者は想像もしたことがないのだろう。こちらは紙の本を1冊読むたび少しずつ背骨が潰れていく気がするというのに、紙の匂いが好き、とかページをめくる感触が好き、などと宣い電子書籍を貶める健常者は呑気でいい。EテレのバリバラだったかハートネットTVだったか、よく出演されていたE原さんは読書バリアフリーを訴えてらしたけど、心臓を悪くして先日亡くなられてしまった。ヘルパーにページをめくってもらわないと読書できない紙の本の不便を彼女はせつせつと語っていた。紙の匂いが、ページをめくる感触が、左手の中で減っていく残ページの緊張感が、などと文化的な香りのする言い回しを燻らせていれば済む健常者は呑気でいい。出版界は健常者優位主義ですよ、と私はフォーラムに書き込んだ。

市川沙央『ハンチバック』
(文芸春秋 2023年)P.34,35

これを読んだ時、心が苦しかった。僕は紙派を公言しており、電子書籍を貶めるようなことを散々書いてきていた訳だ。しかし、冷静に考えてみて「何故、電子書籍が存在しているのか」という根本をしっかり考えていられなかったのだ。つまり、ここにもある通り健常者である僕の傲慢だ。それ以上でそれ以下でもないのだ。

ここが作品の中で1番刺さったところだろう。これは確かに「当事者」にしか分かり得ないことである。僕らの思考はやはり健常者優位主義だ。障がい者のことを考えているようで実は考えていない。僕等は見て見ぬふりをしているに過ぎないのではないだろうか。


はてさて、ここまで色々と書いたがここが今日の限界だ。今回の課題としては柄谷行人『日本近代文学の起源』、とりわけ「告白という制度」。そしてフーコーの『性の歴史Ⅰ』を再再度熟読し、当事者による「告白」という点で考えてみることが重要だと感じた。

そう考えてみると、『ハンチバック』が芥川賞を取ったのも納得できるような気がする。それは、この作品がそういった「告白」と言った部分で日本近代文学の系譜を辿っていると考えるのであれば、現代に於ける「純文学」として存在できるはずだ。

『ハンチバック』のお陰で、小説熱に火は付かなかったものの、近代文学について改めて見直す機会を得た。そういった意味で非常に有益な読書であったと言えるだろう。

感謝。よしなに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?