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雑感記録(338)

【駄文の円環part14】


雨がしきりに降り続ける。

ここ最近、どうも心身が優れない。どちらかというと「心」の方なのだが、別にうつ病だとかそういう訳ではない。ただ、どことなく心が晴れないとでも言えば良いだろうか。何だかモヤモヤみたいなものが常にわだかまっていて、何をやるにも何だか「しこり」みたいなものだけが残滓としてある。悩んでいる訳でもないし、今の生活で何不自由なく生活している。本も読めるし、映画も見るし。ただ、漠然とした何かがいつも心の中に潜んでいる。

人間、誰しも悩みの1つや2つはある物だ。寧ろ、悩みがあることの方が人間味があって良いではないか。それに悩めるなんて贅沢だ。悩みがあるということは幸せに生活していることの証左であるはずだ。悩みが無いというのは、ある意味で現状維持である。前進はしていない。それはそれで構わない訳だが、言ってしまえば変化をしようとしている瞬間を自ら手放してしまうことに他ならぬことではないか。

僕はどうも考えすぎる節がある。僕は自分自身の特性としてよく感じるのだが、僕は考えすぎて中々1歩が踏み出せない。何か1つ目の前の出来事に対してまずは「考える」ということが先行してしまう。言ってしまえば「面倒くさい人間」である。「やってみなければ分からない」ということは百も承知しているし、それが結局物事の始まりであるということは理解しているつもりだ。だが、どうも僕は頭でっかちな部分が多い。

文学や映画や美術などは「感覚」で語ることが出来る。僕はそういう部分が好きである。無論、考えてしまうことには変わりはないのだけれども、結局最終的に戻って来るのは「何となくこれが好き」というものである。どれだけ哲学やら文学の理論を振りかざしても、僕はいつもそこに辿り着く。結局、感性の問題だよね。そういう部分が僕は好きなのだ。

 考えるとはとても不思議な行為です。考えたからいいことがあるとは限らない。むしろ考えると動けなくなる。それでも考えることは大事なはずだと本書では言い続けてきましたが、正直言ってそれが本当だという確信もありません。だって、世界には、なにも考えずに大成功しているひとがいくらでもいます。そっちのほうがどう考えてもよさそうです。
 それでも、ぼくはなぜか、いまの世界には考えるひとがあまりにも少なく、それはまずいと感じてしまった。みなが「考えないで成功する」ための方法ばかりを求める国は、いつか破滅すると感じてしまった。

東浩紀「おわりに」『訂正する力』
(朝日新聞出版 2023年)P.241

僕はこれを読んで励まされた。別に自分自身の「考える」ということを肯定する為に…という訳でもなさそうだ。実際、気分が沈んでいる時は何か自分に肯定的なものを求めてしまう。そういう弱さが自分自身で嫌になるけれども、しかしこれもこれで僕である。受け入れるより他はない。僕の身体は代替可能ではないのだから。例え頭に何人の僕が居ようと、僕の身体は1つでしかない。

生きていることは悩ましい。考えることが沢山である。歳を重ねるごとにそれはどんどん膨らんでいく。しかし、それに反比例する形で僕等は衰えていくのである。生物学的に人間のピークは20歳と言われる。そこからは後は衰えていくしかない。考えることを忘れてしまう。というよりも、考えることが在りすぎて身体が1つでは足りない。僕は常々、脳みそが複数個欲しいと考えている。もう僕の既存の脳みそでは足りない気がしている。

その為に「訂正する力」があるのかなとも思ってみたりする。しばしば「人間に限界はない」というような紋切型の社交辞令的文句がある。僕はそれを目にし、耳にすると寒気がする。限界が無ければ、極論人は死なない。限界という有限性があるからこそ僕等は変化できる。恐らくだが、もし仮に不老不死になれたとして生き続けることになれば、変化することに対して鈍感になって行くはずだ。理由は単純だ。無限に生きられるのだから焦る必要はないのだ。

僕等は限られた中を生きる。だからこそ考えることが出来、行動することが出来る。何も考えないで居られることの方が僕は変だなと思う。考えることを放棄した時点で、それは人間ではなくなる気がしている。考えることは人間に与えられた特権の1つである。行動することは果たしてどうなのだろうか。どちらに優劣があるかというくだらぬことは置いておくとしても、僕はやはり考えることなしに行動することが出来ない。

先の引用にもある通り、考えすぎると動けなくなってしまう。僕は本当にそれを身に染みて感じる。「こうしたい」「ああしたい」と思ったり、それを伝えたいと思うのだけれども、それを言う前に色々と考えあぐねてしまう。もしこれを伝えてしまったら。今これを伝えるべきなのか。そもそも自分はどうしたいのか。これは相手の事を本当に思いやっているのか。ただ自分の我欲の為だけに言おうとしていないか。考え出すとキリがない。

そうして結局、僕は何をしたかったのかと路頭に迷う。これも言ってしまえば宙吊りの状態である。こういう状況を分かってほしいというのは余りにも傲慢だ。人間の思考は流動的であることは過去の記録で再三に渡って書いている訳だが、その原点から遠ざかってしまうことは良いことなのだろうか。それが相手の事を本当に思っていることになるのだろうか。僕は煩悶としてしまう。

結局、自分とは誰なのかということを考え出してしまう。今こうして書いている自分と、誰かと話している時の自分と、家族と話している時の自分と、友人と話している時の自分と…と本当の僕は何処にいるのだろうかと考えたくもなってしまう。しかし、これも本末転倒な話だが、僕の身体は1つしかない。つまり、どれも僕自身でしかないのである。

寛容になりたい。それは他人を認めるとかそういう話の以前として、自分自身を認める為に寛容になりたい。それがどんどん広がって行くことが出来れば、そういう優しさみたいなものは伝播していくんだろうなと思う。やはり、文学や映画、美術に触れることの効用はここにこそあるような気がしてならない。そういうものの中で育まれる何かがある筈だ。僕はそれを信じてそういったものに勤しみたいと思う。

昨今は文学や映画、美術などに触れていることを「趣味」としてしか評価されない世の中である。それは仕事に出来ないとか、現実から離れたものであると何故だか知らないが勘違いをしている輩が多すぎる。僕も本を好きで読んでいる訳だが、その話をすると毎回「いい趣味だね」と言われるのが積の山である。「趣味」などではない。僕にとってはライフワークそのものである。人生を通して向き合っていきたいものである。

こういうことを言うと、大概の人は馬鹿にする。「何にもそれで成していないお前が偉そうに物を言うんじゃない」と。まあ、それはそれで構わない訳だ。人によっては文学や映画、美術が必要ではないという人も中には居るからだ。たまたま、僕にとっては文学や映画、美術が必要であったからに過ぎない。偶然性の出会いという奴だ。

さて、そろそろ終いにしよう。

雨は止んだみたいだ。それでも心は中々晴れそうにない。芥川龍之介が「ただ漠然たる不安」というような表現をしていたと思うが、その気持ちが何となく分かってしまう。ただ、確実に言えるのは、僕はそこから逃げずにこうしてくだらぬ文章を書いている。そう考えると、まだ余裕はあるみたいだ。いつか、本当に文章が書けなくなったらその時が終りの時なのかもしれない。

そんなバカみたいなことを考える、ゲリラ豪雨後。

よしなに。











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