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小さな町の小さな家の中のさらに小さな家たち

 小さな一軒家に住む知人のお茶会に招待を頂いた。第二アドベント(クリスマス関連の行事)の集いである。

 今回は、その集いに、私がかつてお会いしたことがない方が参加されるという。

 招待をして下さった家族には、息子と娘がいらっしゃる。娘さんには何回かお会いしたが、息子さんにはお会いしたことがなかった。

 非常に人見知りな青年で、人の集まるところには通常は姿を現さないと噂に聞いていた。


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 私は久々にストックホルムの境界線を越え、北上した。数か月ぶりのことである。

 車にて小一時間の小さな町ではあるが、坂の多いストックホルムとは様相が異なる。平坦な町であるため、市内からは遠方の城、教会までを見渡すことが出来る。


 招待して下さった知人の家は、写真の(無関係な)家の三分の一ぐらいであった。その小さな家の中に通路のようなキッチン、ダイニング、小さな居間、小さな寝室、さらに小さな子供部屋一つ。地下にも部屋があるのかもしれないが下りたことはない。


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 小さな裏庭に生える二本の林檎の木は一年ごとにたわわに実をつける。私は、成り過ぎてその家で食べきれない林檎を戴いて、スーパーマーケットの袋一杯に詰めて持ち帰る。

 そして、その林檎を使って林檎ケーキを飽きるほど焼く。そのケーキも食べきれないために人様に配ってまわる。


 パンデミック以前の話である。

 林檎は昨年も今年も不作であったらしい。あたかもパンデミックと連動しているようである。

 

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 知人の小さな家の三畳ほどのダイニングルームに、私達招待客9人は所狭しと肩を並べて座った。自分で希望したわけではないが、私はくだんの青年の横に座ることになった。

 人から伺っていた話から、私は青年はなんとなく地味で内気な人であると思い込んでいた。

 服装の趣味は、確かに地味と呼べるものかもしれなかった。ベージュと茶色の縞模様のセーター、というアウトフィットは、スーツ姿の招待客の中では多少場違いであったかもしれない。

 しかし、髪はさっぱりと切り揃えられており、端正な顔立ちが育ちの良さを感じさせた。内気、臆病というよりは、物静かで落ち着いている、というほうがより適格な描写であろう。

 青年は自分から話題をふるということはしなかったが、誰かから質問をされたことには礼儀正しく穏やかに返答をしていた。

 また、手が届きにくいところにある料理の大皿を持ち上げて、私および他の人達が取りやすいように、と常に気を利かせてくれていた。


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 集いのあと、共通の友人に、「彼は非常に親切な青年であった」、と話したところ、

 「そうだよ。彼は今どき優しすぎるぐらい優しい青年だよ。それ故に脆いのかもしれない」、と友人は答えた。


 優しすぎるぐらい優しいために脆い?

 人間、多少図々しいくらいでなければ、今の世の中を生き抜くことは難しいという意味であろうか。


 その端正な顔立ちを思い起こした。

 敢えて例えてみれば繊細かつ脆弱なガラス細工であろうか。


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 彼の母は町の小児科病院の婦長であり、手先が非常に器用な方である。私は、彼女からクリスマスプレゼントとして、手編みの温かいマフラーを頂いて驚いたことがある。

 サムネイル写真のクリスマス・オーナメント、ジンジャークッキーを模った粘度の飾りが掛けられている写真の蝋燭、その他多く、手作りのものは彼女の作品である。

 「こんなに工芸がお得意の婦長さんであったら、子供達はさぞ喜ぶでしょうね」、と私が誰ともになく述べたところ、

 青年は軽く噴き出すと、両手で小さな輪を作って私の誤解を訂正した。

 「子供と言ってもこんなにちっちゃい赤ちゃんだよ」

 

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  フローリストである彼女の娘は(写真にはないが)クリスマスクランツをアレンジして来てくれていた。

 そして、この娘さんもまた非常なはにかみ屋であった。数年前、一度、私と二人だけになる機会があった。私が、何かを話し掛けるべきかと躊躇していた時、彼女はおもむろに携帯電話を取り出し、その画面に集中し始めた。それはおそらく、話し掛けないで欲しい、というジェスチャーであった。

 彼女と親しく会話を出来るようになるまでは数年間を要した。

 

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 いつの間にか、集いの話題はサッカーで盛り上がっていた。残念ながら私はスポーツの話題には付いていけない。くだんの青年を振り向くと、その話題に加わるでもなく、黙々とクリスマスリゾットを口にしていた。


 「サッカー観戦は好き?」、と私が訊ねると、

 「僕は残念だけどスポーツには興味があまり無いんだ」、と答える。

 しばし、沈黙が流れた。

 私は沈黙が苦手である、何か話題を見つけなければならなかった。

 ふと、これならいけるかも、という話題が浮かびあがった。


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 「もしかしたらNetflixでイカゲーム見たことある?」

 「あるよ」、と青年は答えた。ビンゴであった。現在、若者の間で非常に流行っているNetflix提供のシリーズである。

 私はそのシリーズを見たことがなく、見る予定もないため、彼にあらすじを説明するように頼んだ。

 「見終わった後に、清々しい気分にはならないけどね」、と前置きを残しながらも、彼はイカゲームの内容を掻い摘んで説明してくれた。まわりの人達も彼の話に耳を傾けていた。

 私は、彼が束の間でも集いの主人公になっている様子を眺めるのが小気味良かった。 

 ようやく勇気を振り絞って集いに参加をしてくれた彼には、その存在が他の参加者に認識されているという感覚を享受して欲しかった。

 

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 彼が一度だけ自分から私に話し掛けて来たことがある。

 「この蝋燭の減り具合、奇妙だよね」、と彼はアドベントの蝋燭を指さした。 

 そう言われれば奇妙であった。右から二番目の蝋燭が一番短くなっている。

 一番右の蝋燭から最初に灯し始めたのであれば、その蝋燭が一番短くなっているはずである。第一アドベントには一本目を灯し、第二アドベントには一本目と二本目の両方を灯すからである。


 集いの他の人達が世間話に花を咲かせていた間、彼は一人でずっとこの蝋燭の炎を見つめてながらそのようなことを考えていたのであろうか。


 集いの喧騒が一瞬だけ途切れ、静寂が訪れた時、どこからかショパンのノクターンが流れて来ていた。

 彼は瞼を閉じ、その旋律に中に身を委ねているようにも感じられた。

 ショパンは果たして彼の選曲であろうか。集いの中には、以前オーケストラに所属していた人たちも参加していたが、これに関しては、何となく彼の選曲のように感じられた。



 時おり、スウェーデンという国が不憫に感じられる時がある。

 教育を無償で提供したところで、卒業後は、大都市の喧騒を求めて、また太陽を求めて、海外へ飛び立って行ってしまう学生たちも多い。

 

 しかし、その一方で愛国主義者も多く、外国になどまったく興味がない、という人々にも少なからず出会う。排他的な人々も存在するが、ひとえにスウェーデンを愛し、この国の中の小さな町の小さな家で、ささやかな幸せを享受している人々もいる。


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 果たして、私は驕っていたのかもしれない。パーティー等においては、あらゆる参加者は一瞬でもスポットライトを当てられるべきだと考えていた。

 そのため彼を無理やりステージ上に引きずり出してしまったのではないか、と後悔した。

 この、もの静かな青年は、この小さな集いの主人公にならなくとも、ひっそりと目立たずに座って居るだけでおそらく満足であったのかもしれない。


 小さな家の模型がところどころに飾られるこの小さな家で育ったこの繊細な青年は、クリスマスが足音軽く訪れるつつあるこの時期、自分のアパートで、一人でショパンを堪能しながら蝋燭の炎を見つめているのかもしれない。

 

 この小さな家で、小さな家々と微かな灯火に囲まれていると、日頃のストレスなどはどこかに置き去りにして、静かに悠々と蝋燭の灯りを眺めていたくなる。

 これこそが、北欧の十二月がなせる業かもしれない。

 

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本日もご訪問有難うございました。

この家に飾られているものは、小さな家々以外はほとんど手作りのものでした。ケーキとクッキーも手造りでした。

サポート等を辞退させていただいているため、残念ながらおススメ記事として選んでいただけることはないのですが、好きな事を書かせていただいているものに共感を寄せていただくことはとても嬉しいことです。最近、弊記事をマガジンに追加して下さった方々がいらっしゃいます。本日はその中の二名様をご紹介させて頂きたいと思います。


りんご探偵様

文中でりんごの話をさせて頂きました。りんご探偵さんに関しては、私の乏しい語彙でどのように説明させて頂ければよいかわからないのですが、愛に関して、りんご探偵さんの解釈は如何なるものでしょうか?


アートとメルヘンと創作の森様

過ぎ去った追憶の日々を鮮やかに思い出させて下さるイラストとお話を提供して下さっていらっしゃる方です。ハンドルネームの通りの方ですね。時々辛口記事も書かれていらっしゃいますが、そのギャップがまた興味深いところです。


また、最近Noteに参加された方々で何回か交流させて頂いた方々も徐々にご紹介させて頂きたいと思っております。

皆さま、お風邪を引かないようにご自愛下さいませ。

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