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僕のafter.311

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実際の体験に基づいた記録です。実在する名前などは伏せています。
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記事一覧

僕のafter.311  《20》子どもたちの人権を守れ

『復興支援』と一言に言っても実に様々な活動がある。その中で僕らのNPOが緑のカーテンの次に…

僕のafter.311 《19》理事長更迭!被災直後の被災地の人材事情

6月にケンスケに呼ばれてから、僕はほぼ毎週末なんらかの方法で南相馬に入っていた。最初は「…

僕のafter.311 《18》トンネルの誓い

復興支援活動をする中で再開したもう一人の同級生がいた。彼は大学を8年かけて卒業して地元に…

僕のafter.311 《17》千年の伝統は守られるのか

南相馬は毎年7月になるとお祭りのため町全体が慌ただしくなる。『相馬野馬追』というお祭りだ…

僕のafter.311 《16》人生のターニングポイントにおける決断方法③

ここは間違いなく僕の人生におけるターニングポイントだ。まずは考えられるすべての情報と、結…

僕のafter.311 《15》人生のターニングポイントにおける決断方法②

二足のわらじを履き続けることへの限界を感じた僕は、 1、 復興支援活動はそこそこにしてこの…

僕のafter.311 《14》人生のターニングポイントにおける決断方法①

『広告会社社員』と『復興支援活動』 6月以降、僕はこの二足のわらじを履くことになった。本業の方は元々とっても忙しかった。今で言うブラック企業。毎日終電近くだし、タクシーで帰ることもしばしば。寝て起きたらまたすぐ仕事。週末に南相馬に帰ることにしているので、さすがに最近は休日出勤はしないようにしている。そんな本業の合間に、『復興支援活動』を入れるのはなかなかしんどい。睡眠時間を削っていくしかないという状況。 昼夜問わずケンスケからの電話もかかってくるし、いよいよ二足のわらじ履い

僕のafter.311 《13》二足の草鞋を履く

メディアではまだまだ被災地の情報を流していたけれど、震災から3カ月も経つと、東京ではだい…

僕のafter.311 《12》plant to plant

『plant to plant』工場から植物へ。 ケンスケは今行っているプロジェクトについてそう言った…

僕のafter.311 《11》被災地でチラシを折りながら

僕は本当は震災後すぐにでもありったけの物資を持って家族の元へと駆けつけたかった。レンタカ…

僕のafter.311 《10》電話の向こう側

「やったぁ!」 僕は開放感に溢れていた。何てったって、トラブル続きの地獄の日々から抜け出…

僕のafter.311 《9》船や車がゴロゴロ転がっている風景

南相馬の実家は思ったよりも無事だった。築40年になろうかという物件は柱も多く、倒壊せずに住…

僕のafter.311 《8》親父の苦悩

当初2週間の出張も、一向にトラブルがおさまる気配を見せず、ついには1ヶ月が経っていた。僕の…

僕のafter.311 《7》中国の風呂の中から見た枝野

「3月のうちに(放射能に汚染された)日本から離れられてラッキーだね」 なんてことを言われたこともありました。そんなときは「全然!」と全力で否定してやります。 家族が福島にいる。 生まれ育った故郷が30キロ圏内にある。 どうなっているのか心配で心配でたまらないし、今後どうなるのかわからない事は不安でしかない。 4号機も爆発するかもしれない。 そうなったら、今度こそ福島は終わる。 そんなときに何もできないなんてつらすぎる。せめて家族のため、仲の良い友人のためだけにでも役立てる時が