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僕のafter.311 《8》親父の苦悩

当初2週間の出張も、一向にトラブルがおさまる気配を見せず、ついには1ヶ月が経っていた。僕の精神状態も悪くなる一方。中国にいるとどうしても入手できる情報に制限があり、地元のことがあまりわからない。僕は上司に
「一度日本に帰してください」
「震災後一度も地元に帰れていない」
「家族の状況が気になる」
「地元の被災状況も心配」
と何度も何度も懇願した。おかげで、何とかゴールデンウィークに2泊3日の一時帰国が許された。これではもはやどっちに住んでいるのかわからない。中国へは僕の代わりに後輩の女の子が派遣された。

香港空港から羽田空港へ。そこから一旦北戸田の自宅に寄って荷物を入れ替え、大宮から新幹線で福島へと向かった。現在沿岸を走る常磐線は各地で断線中。原発もあるため通れない。そのため、福島駅が南相馬から最も使いやすい駅となっていた。駅には親父がわざわざ迎えに来てくれていた。福島の空気はどことなく重かった。
福島市から南相馬市までは車で約1時間半かかる。しかも、放射線汚染によって避難区域に指定された飯舘村を通るルートだ。道中、311からゴールデンウィークに至るまでの状況を親父が話してくれた。

震災直後は福島の事務所がダメになり南相馬で待機していたら爆発が起きて親戚の家に1週間以上いたが、大人数で長期間はさすがにいづらくなり、ストレスによる体調不良と天秤にかけて、南相馬に戻る決意をしたとのことだった。

親父は公務員で県職員だった。親父の最初の仕事は飯舘村の住民の退避命令を伝えること。避難に対する住民説明会へ県の担当者として参加したらしい。
「どうして避難しなきゃならないんだ」
「ここは30キロ以上離れている」
「家はどうするんだ」
住民からは矢継ぎ早に質問が飛んだが、いち現場の公務員には上(県もしくは国)が決めた内容以外には伝えられることも、わかることもなく、板挟みに合っていたという。泊まりがけで避難所運営や説明会にも駆り出され、久しぶりに見る親父は疲れなのかやっぱりやつれていた。

親父は飯舘村の酪農家への指導もしていたという。
「震災前の干し草は牛に食わせちゃなんねっていうのに食わせちまう」
「育てた牛を殺処分しろって伝えなきゃいけなくてな」
父は長年酪農家への行政指導を行なっていたので酪農家の気持ちはよく知っていた。馴染みの酪農家への殺処分の決定通知。反発は必至。自分だって牛を殺したくはない。でも国や県は放射能を浴びたから、もう出荷できないから殺せという。それを自分が直接伝える役割を担わなければならないことが、何より辛かったに違いない。

親父と話していると、いつの間にか生まれ育った南相馬に入ってた。

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